2024年映画感想No.19 ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ ※ネタバレあり
主人公二人と冬村かえで〜対照性を示す冒頭の編集
キネカ大森にて公開初日に鑑賞。
追いかけっこしていた男の子が人を殺している池松壮亮演じる冬村かえでと出会う冒頭の場面から引き込まれる。イノセンスを抱えたまま殺し屋になってしまった冬村のバックボーンを示唆するような象徴的描写なのだけど、映画の掴みになる緊張感のある描き方としても上手い。
血みどろの冬村からリゾート地で遊んでいる高石あかり演じるちさとと伊澤彩織演じるまひろに切り返す編集はこのシリーズらしい緩急であり、この「緊張対緩和」という対比の構図は本作の重要な要素でもあると思う。
シリーズの良さを踏襲しながらスケールアップされた続編
正直シリーズのファンは主人公たちの日常と主人公たちのアクションが見れたらそれだけで満足する部分もあると思うし、実際シリーズ二作目である前作の『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』もそこの魅力はきちんと引き継いだ作品になっていたので、今作も観る前からその部分には安定的なクオリティを想定できたかなと思う。そのシリーズ化しやすい強いフォーマットがあるからこそ「どうマンネリ化を防ぐのか」に工夫が必要な続編ではあったと思うのだけど、舞台設定や敵役をスケールアップさせることでちゃんとアップグレードされた続編になっていて素晴らしかった。
映画のしょっぱなにくる宮崎でリゾート遊びしてる主人公二人の描写が、「この二人が楽しそうなだけで最高」というお約束描写をやりつつ、観光映画、旅行映画としてもちゃんと映画をリッチにする素晴らしさがあった。派手だし、設定的な面白さも強いし、なにより人並みにはしゃぐ二人が「普通の世界側の人間」であることを示す描写にもなっている。
まあ正直もう二人がVログみたいなノリで観光してくれるだけで楽しいのだけど、その観光気分から地続きで殺しの仕事が始まるというベイビーわるきゅーれらしい世界観の描写として宮崎県庁のシークエンスに入っていくのが素晴らしかった。
池松壮亮の素晴らしい存在感
そして、ここで登場する池松壮亮。ラスボス役を演じるのが池松壮亮というのは結構なサプライズだったと思うのだけど、表面的な部分でも、内容的な部分でも彼が演じることの意味がとても大きい役で本当に素晴らしかった。ここに冬村かえでという魅力的なキャラクターをしっかり持ってきたこと、それに応えた演出、演技のレベルの高さに心が奮えた。
まずは単純にネームバリューとして圧倒的に華がある俳優が演じるメリットが大きい。こういうシリーズものは「三作目はあの人が出てたやつね」みたいな覚え方する部分があると思うのだけど、その意味でベイビーわるきゅーれの3は「池松壮亮のやつね」って思い出す作品になると思う。ミッションインポッシブルの3で悪役がフィリップ・シーモア・ホフマンだったのと近い気がする。
ただ、そういうある意味でスケジュール的な制約が厳しい俳優が出ることでアクション的にスケールダウンしてしまうと作品的にはマイナスになってしまいかねないと思うのだけど、そこでちゃんとアクション的にもすごい存在感の役を引き受けているのが観ていてめちゃめちゃ感動してしまった。
この映画で最初に冬村が「強い」ということを示す描写として宮崎県庁内でまひろと一つの銃を奪い合いながら移動していくアクションシーンが本当に素晴らしかった。ベイビーわるきゅーれのアクションシーンは毎回発明的な場面を作ろうという志の高さとそれを実現させる仕事の素晴らしさに「こんな面白いアクションを見せてくれてありがとう!」って気持ちで感動してしまうみたいなところがあるけれど、今回はそれに加えて伊澤沙織と対等に渡り合う池松壮亮のストイックな仕事にもグッときてしまう。アクションのイメージ全くなかったのだけど凄まじい殺人マシンぷりだった。役者さんって怖い。
ステゴロファイトになってからの冬村の無駄な動きがないファイトスタイルとか、ちゃんと目で見える強さの表現が行き届いている点も感心した。まひろが細かい動きで戦うこととの絵的な対比になっている。
特筆すべき新キャラクターのキャラの立ちっぷり
前田敦子演じる入鹿と大谷主水演じる七瀬が合流してからの当初ギクシャクしていたチームが信頼関係を築いていく描写も良かった。ツンデレパイセンの入鹿と訛り脳筋の七瀬という、一行で説明できるキャラの立たせ方が本当に素晴らしい。ちさととまひろのケミストリーに割って入る役割でちゃんと観客に好きになってもらえるキャラクターを作るって結構凄いことをしていると思う。
「自分たちらしさ」という主人公性をめぐる戦い
映画を通じてこのシリーズ最大の特徴であり発明だった「殺し屋である前に普通の女の子」という主人公性をめぐる物語になっているのが面白い。ちさととまひろは自分たちの人生を楽しむことを優先する人物であり、それが他の殺し屋との違いになっている。
入鹿との対立には常に「自分たちらしさを守ったまま仕事ができるのか」という論点が描かれていると思う。「すみません」で済まない職業ではあるので入鹿でなくとも「その意識の低さはどうなんだ」と思ってしまう部分もあるけれど、ありのままでも強い、という主人公たちの姿勢が入鹿の等身大性を解放するきっかけになっているように思う。(ちなみに僕はターゲットを守るために負傷した入鹿だけが謝るのはフェアじゃない、という気持ちで彼女が謝るシーンを見てました)
ちさととまひろの軽さ、冬村の重さ
序盤に「殺しのついでに観光じゃなく、観光のついでに殺し」というやりとりがあるように、主人公二人の殺しに対するスタンスは軽い。それが殺しが人生そのものでもある冬村の「重さ」と対立の構図になっているのが面白かった。池松壮亮という重みのあるキャスティングがとても効いていて、彼の存在感が映画に必要な重力を作り出している。冬村の緊張感と二人の安心感のどちらが勝つのか?という論点があり、その「緊張対緩和」という対比的な構図は冒頭に冬村から主人公二人へと繋がる編集の時点から宣言されているように思う。
冬村の家で見つける彼の日記がまさに「殺しが日常」、「殺しが人生」という彼の生き方をそのまま象徴している。弁当屋でお箸をもらえなかった彼が夜におばちゃんを射殺するところには殺すことでしか人と関われない悲哀が浮かび上がる。殺し屋としてしか生きられない彼は殺し屋として成長することだけを人生の充実として生きている。
一度冬村に負けたまひろは彼の強さ=重力に引き寄せられていく。冬村のサンドバッグを叩くまひろから冬村の回想的描写に繋がる編集からは、まひろが冬村の強さの源を理解しようとしている(もしくは通じ合う何かがある)ようにも映る。
そうやってまひろが冬村のまとう緊張感に引っ張られそうになるのをチサトの軽さが二人本来の空気に引き戻すように描かれている場面が何回か出てくる。冬村の回想=冬村の世界観から我に返ったまひろが冬村のテントでカップラーメンを食べているチサトを見つける、という流れがちゃんと「二人」という安心感に立ち返るような描写になっているし、そこからテント内でそのまま酒盛りを始めるのも全く違う人生を生きている冬村と二人の皮肉なコントラストを際立てているように思う。
クライマックス直前にはまひろが冬村の緊張感に引っ張られるように「あっちでも遊んでくれると嬉しい」と不安からくる言葉をちさとに吐露する。それに対してちさとが叱咤として「仕事が終わった後の話」をするのがちゃんと彼女たちの強さである「私たちらしさ」に回帰するやりとりになっていて素晴らしかった。
そうやって絶対的なお互いの繋がりがあり、劇中でも信頼できる味方を獲得していくちさととまひろに対して冬村はずっと孤独に戦っている。冬村が農協の殺し屋たちを従えることになる成り行きも結局恐怖による支配であり、それを友情と混同してしまうような車内の冬村の様子はコミカルで笑える描写なのだけど彼の哀れさでもあると感じた。
「2対1」という象徴的な構図
ずっと主人公たちが「二人一緒」ということを強調してきた物語のクライマックスでちゃんと「2対1」という象徴的な絵面を作るところも素晴らしいと思う。その上でちゃんと2対1のバトルをフェアに描くところも流石のアクションコーディネートだった。
「強い悪役に二人がかりで勝つ」というのがどうしても卑怯に映るアクション映画がたくさんある中で『ベイビーわるきゅーれ』は数的有利をあくまで「負けない」ためのロジックとしてしか用いない。最後は正々堂々1対1で戦ってくれるので、だからこそ緊張感があるし、応援のしがいがある。
戦いの中で冬村がまひろとの繋がりを実感していくのが切ない。「楽しい」という実感を確かめるようにお互いの名前を認め合うことが冬村にとっては人生で唯一の人と繋がる瞬間なのだろうし、それは常に殺し合うことで自ら手放すしかない運命であるのが悲しい。まひろを殺さずにハンカチを渡した冬村が、ハンカチを、つまり繋がりの可能性を拒絶して死を選ぶしかないという決着にも運命の皮肉がある。
冬村のイノセンスへの誠実な眼差し
勝利した二人の打ち上げのラスト、ケーキを持ってくるサプライズの直前に冒頭のハンカチの子供が一瞬現れて立ち去るのは、この場所にいれたかもしれない冬村の純粋な姿のように感じた。
ちゃんと殺し屋映画らしい「裏社会に生きる悲哀」をこのシリーズなりの距離感で描くワンカットであり、それが二人の他愛もない瞬間のかけがえなさを際立てている。まひろが流す涙や「生きててよかった」という言葉には「ホッとした」以上の複雑なニュアンスがあって、その単に能天気なハッピーエンドにしないバランスには作り手の冬村というキャラクターへの誠実な眼差しが感じられた。