2023年映画感想No.37:ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(原題『The Super Mario Bros. Movie』) ※ネタバレあり
全世界、全世代に浸透したポップカルチャーの映画化
109シネマズ川崎にて鑑賞。吹き替え版を観た。
誰もが知っている原作ゲームという全世界レベルの前提の共有があり、そのフェイムがあればこそ成立する説明を拝した構成がある。
要素を繋ぎ合わせるためだけの物語を作るにあたって最速最多でネタを繰り出すための精度の高い語り口がこの映画特有の情報量とテンポを生み出していると思うし、ゲームのステージが切り替わっていくようにどんどん新しい要素が投入されていくのが「ゲーム体験の映画化」として非常に純度が高いと感じた。
ある意味でゲームとしての「マリオの画面」の印象が強いからこそスピードやカメラワークといったゲームとは違う映像的なダイナミズムによる描き直しがフレッシュに見えるところもあり、ちゃんとゲームでは描けないところに映画ならではの映像体験としてリーチしているのも素晴らしいと思う。
現在的にチューニングしなおされたキャラクター配置
映画の上映前につくCMでもわかるようにマリオというキャラクターは全年代向けのポピュラリティーを内包した存在であり、そういうものの映画化としてしっかり今の価値観にアップデートされたキャラクターに細かな設定がチューニングがされている点も好ましい作品だった。
ピーチ姫はナイトに助けられるだけの存在ではなく、行動原理も特定個人への恋愛感情ではなくヒューマニズムで動くキャラクターになっている。「ピーチ姫のナイト」という役割が無くなったマリオの物語は貴種流離譚になっているのだけど、父親から認められず何者にもなれない男性的なコンプレックスに苦しむ存在であるマリオが同じ苦悩を抱えるルイージやドンキーコングとのブラザーフッドを通じて互いのアイデンティティを回復させていく物語が人間ドラマの面にも一貫性と厚みを加えている。
一方で悪役となるクッパの設定も男性的欠落を暴力によって取り戻そうとしているキャラクターとしてマリオたちと対照的な存在になっている。自分の思い通りにならないと暴力を振るい、恐怖による支配でしか他者との関係を築けない。そういう男性主義を否定する物語になっていることは素晴らしいと思うのだけど、クッパが過去の自分の振る舞いによって孤独になってしまうという描写や暴力を振るうことが彼の弱さだという具体的な言及が無いままラストにマリオたちがより強い暴力でクッパの暴力を解決するような描かれ方になっているのは少し惜しかった。
「スターを取る」という演出でマリオ的なコミカルさもあるラストバトルではあるのだけど、あんな直接的な蹴ったり殴ったりじゃなくマリオならではのポップさやアクション演出でもう少しやだみの無い勧善懲悪を描けたのではと思ったりした。
観客の中にある「マリオ」という文化の蓄積を引き出す作品
知らず知らずのうちにマリオを通じて触れてきたカルチャーが自分の中に蓄積されていることを思い起こさせるような瞬間がやっぱり感動的で、「みんなが知っているマリオのあれ」的な引用が反則な演出であればあるほどむしろそれで説明無く通用してしまうポップカルチャーとしての絶対的存在感に感動してしまうくらいだった。各場面の引用元のゲーム、音楽全てわかってしまうことが他の映画には無い種類の感動になっている。
観る人の思い出と直結する演出がスタミナ切れせずに最後まで持続するくらいマリオというキャラクター、ゲーム作品が築き上げてきた文化は大きく、映画を通じてそれを改めて実感していくような部分が特異な素晴らしさとしてこの映画を成立させていると思う。他の作品で同じことは出来ないし、他のキャラクターで同じような映画が作れるモチーフは存在しないのではと思う。
そういう意味でもはや基礎教養的に全世代の近くにあり続けたスーパーマリオ、および任天堂の偉大さを改めて感じる作品だった。すごい良いトリビュートアルバムを聴いて原典となるアーティストの素晴らしさを改めて実感するような内容なのだけど、トリビュートしたアーティストも良い仕事しているという点もこの映画の素晴らしさだと思う。