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2024年映画感想No.3:サン・セバスチャンへ、ようこそ ※ネタバレあり

ウディ・アレン映画に見る業の肯定

シネリーブル池袋にて鑑賞。
いつものウディ・アレン作品と同じように「俺、もう男として終わってるのかも、、、」という自信を失った男性主人公が新しいロマンスを通じて人生を取り戻そうとする話で、相変わらずウディ・アレンは惨めな自分に残された最後の居場所として映画撮ってる人なんだなあと感じる作品だった。
幸せになれなかった過去の恋愛や自身の情けなさといった業も映画にすることでかろうじて意味を持たせられると信じたいんだろうと思うし、そういう「俺は本当にダメだ」というストイックな自己批評と「そういう人でも幸せになっちゃだめかな?」みたいな自分への甘さみたいなものの間で揺れてしまう人間臭さまで身も蓋もなく映画にしてしまうところが映画作家としてのウディ・アレンの誠実さであるようにも思う。自分の人としての不誠実さまで映画として描く誠実さというか。
彼のことが嫌いな人は主人公が新しい恋愛で報われるようなこの映画の展開を観て自分に甘い、反省してないと思うかもしれないけど、「救いようがないのに救われたいと思ってしまう救いようがなさ」みたいなところはウディ・アレンにしか描けない人間の業なのではと感じる。

ダメダメな主人公の抱える孤独と情けなさ

主人公が過去を振り返っている場面から映画が始まることも「自分自身の物語化」というウディ・アレンの映画作りそのものを象徴的に表す構造に感じた。
この映画もやっぱりアイデンティティが壊れかけでどうしようもない人物の話なのだけど、才能の限界とか、老いとか、映画の好みが時代に取り残されている感じとか、ウディ・アレン的価値観がはっきり時代遅れになりつつある現状を考えると、「映画祭」という場所でなんの役割も持てない主人公像は映画界に居場所がなくなりつつあるウディ・アレンの状況が重なって見えるようで味わい深い。
妻との結婚生活は冷めきっているしそれが自分の魅力の無さに起因していることも薄々気づいているのだけど、その状況をまだなんとかしようとしている情けなさも滑稽で面白い。
「なんか胸が痛い」などと情に訴えてみたり、得意の映画の話で会話に混ざろうとしてみたりするのだけど、妻だけじゃなく周りの人全員に相手にされないのが哀れで見るに耐えない。ただそういう自分を自覚するたびに主人公がいろんな人から批判される夢を観るのが、内心ではわかっている自分の問題と無意識的に向き合おうとしているプロセスのようにも感じられる。
さらにその夢がいちいち旧作映画のオマージュになっていることで、自分のダメさをクリエイティブに表現できる想像力だけが彼に残された最後の自己肯定の手段であるかのように映る。それはそのまま自分自身のダメさを映画という娯楽に変換することでなんとか肯定しようとしてきたウディ・アレンの映画作りそのものとも繋がっているように思う。

現実に向き合えない主人公の愚かさ

妻の心を取り戻したいと思って映画祭にまでついてきたのに妻は若い映画監督に付きっきりで仕事の関係以上なのではとどんどん不安になっていくのが情けなくて面白かった。妻も映画監督も主人公に対して興味すら無い感じで、妻の心が別の男になびいていくのを目の前で見せつけられるような場面ばっかり続く。どこに行っても映画監督が同席してて全然妻と望んだ時間を過ごせないし、ポイント稼ごうとするアピールもことごとく空回りしていて「これはもうダメなのでは」という感じだけがモリモリ強まっていく。ヌーベルバーグの信奉者である主人公の恋敵がかつてゴダールを演じたルイ・ガレルっていうのがメタな皮肉のようで笑ってしまった。
主人公は大学で映画の講義を教えていたことがあるのだけど映画の話をしてもマニアックすぎて誰も話についてこれないし、小説家と言いながら口だけで結局何も書けてない。自己を定義する関係性や社会的立場を完全に見失っている人物であり、これまで通りの自分では誰からも受け入れられないかもしれないという自身の限界を感じ始めている。
そんな感じで他者からの承認に飢えている人だからこそ、ちょっと話が通じた女性にコロッと心が傾くのも愚かで可笑しい。「もしかして俺の居場所はこの人なのでは?」と思い始めるとせっかくの妻からの誘いにも全然気持ちが乗らなくなるのが現実を正しく認知できていない感じがしてとことん愚かに映る。保険かけまくりながら不自然なアピールを繰り出しまくるのも客観的に見ると必死で痛々しい。

ウディ・アレン的な諦観と切実な映画讃歌

妻との関係はもうダメっぽいけど、かといって若い人妻女医に全ベットするのもそれはそれで無謀という、行くも地獄、帰るも地獄という状況の先にウディ・アレンらしい諦観たっぷりの着地が描かれる。
人生の限界にぶち当たった結果として抗い続けた結果全てを失ってしまうのか、ほどほどに行こうぜと割り切って幸せになるのかは作品によってグラデーションがあると思うのだけど、この映画ではなかなかビタースウィートな大人の着地で良かった。
お互い現実は変えられないけれどその時間自体が救いだったという関係はとても美しいと思うし、一方で同じ気持ちだったことはもはや確かめようがないからこそ「そうだと思いたい」という切実な願望のようにも見える。人生にはそういう夢が必要だし、この映画内ではまさに映画とは夢そのものだから、ウディ・アレンはやっぱり映画を切実に必要としているのだと思った。
主人公が夢の中で何も残らなかった自分の人生を空っぽと嘆くのに対して『第七の封印』風のクリストフ・ヴァルツが「無意味だが空っぽじゃないし、人生は労働や趣味や愛で満たすことができる」と言葉をかけるのだけど、それもそのままウディ・アレンの創作論のように感じられた。

ラストに一つ俯瞰した語り部の視点から「どう思った?」と物語の印象を観客に投げかけて終わるのも「ウディ・アレンの映画」に自覚的な自虐のような感じがして、その逞しいユーモア感がウディ・アレンが映画を作り続けられる強さなのだろうと思った。
毎回やっぱりダメな男だなあと思うのだけど、それを描けることもまた映画の素晴らしさだと思う。

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