![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156810569/rectangle_large_type_2_6f70db0d977877d4d3c019b57cc04fd8.jpeg?width=1200)
2024年映画感想No.18 スオミの話をしよう ※ネタバレあり
久しぶりに観る三谷幸喜監督作品
キネカ大森にて公開初週末に鑑賞。
三谷幸喜は日本で一番有名な映画監督の一人だと思っているのだけど、個人的には監督作品もその他の脚本作品や舞台作品もほとんど通ってきていない。
ただ、新作が公開されるとなるとすごいレベルでプロモーションされるし、俳優陣はめちゃめちゃ豪華だしと、普段映画館に来ない層までを相手にするようなザ・大衆娯楽作品がどういうチューニングで作られているのかにはすごく興味があった。
面白くなりそうだった部分
「スオミの5人の夫のそれぞれ語るスオミの人物像がそれぞれに全く違う」という道中の展開を作るための謎と、「スオミがいなくなった真相」という結末に関わる謎の両方が上手く描ききれていないためにどう受け取っていいのかよくわからない話になってしまっている印象だった。
まず「スオミの五人の夫(正確には現夫と四人の元夫)」に関しては、年齢も性格も社会的立場もバラバラな男たちが全員夫っていう不自然な状況から「スオミはなんでこの人たちと結婚してたんだろう」っていうのが全然見えてこない感じは面白くなりそうな設定ではあると思う。基本的には新しい夫が出てきてスオミの新しい人格がわかっていくことでスオミがどんどん何者なのかわからなくなっていく、という仕掛けも描き方次第では面白くなるだろうとは感じた。「次の人も多分全然違うスオミの話をするんだろうな」っていう流れがわかっていくことでこちら側も「今度の夫の知ってるスオミはどんな人物なんだろう?」って待ってしまう感じとかは楽しく観た気がする。
行き当たりばったりな構成による破綻
まずシンプルにここで各人の知っているスオミの人格にどれくらい幅があるのか、っていうのを割と予告編で見せてしまっているのが結構もったいないと思った。描写それ自体の面白さを大幅に目減りさせていると思う。
それ以上にこの「一人一人の知っているスオミが全然違う」という設定がスオミという人物の描き込みになっていないのが良くないと思った。結局「たださっきまでと違うスオミを描く」ということが目的化している描写になっていて、人物描写としては破綻してしまっているように感じた。
屋敷でスオミの話をする夫たちの会話に挟み込まれる形で、ある種スオミ側の視点でもある各夫との結婚生活の描写が回想的に描かれるのだけど、最初に描かれる西島秀俊演じる草野との関係が「結婚生活で抑圧される女性」というある意味でとてもわかりやすいエピソードになっている。男性側の見ていたものと、女性側の見ていたものが全然違うという、この物語が「何を描こうとしているのか」に一つの解釈が持てる描写になっているし、テーマ的にも切実な話だと思う。
これが最初に来ることによって「喜劇の後ろ側には真面目なテーマがある」という重層性を最初に提示している構成になっていると思う。だからこそ他の夫との関係性でもそこがどう描き込まれていくのかに注目して観ていくのだけど、「さっきのスオミと違う!」というギャップのためのデフォルメにどんどん流れてしまって、結果おもしろのために肝心なスオミの切実さが犠牲になっているようなバランスになってしまっていると感じた。正直、キャラクターに対して無責任だし不誠実な印象を持った。
それぞれの結婚生活は「結果、破綻している」という答えが出ているからこそスオミ目線も内包されている各夫との思い出の描写には違うアングルが生まれると思うのだけど、草野以外の夫たちに関しては関係性の問題がぼんやりしている部分が多い。だからスオミにとって結婚がどういう意味を持っていたのかが描写からは伝わってこないし、そこまでして結婚に依存するバックボーンも描かれていないので、スオミはスオミで何がしたくてこんな無茶苦茶な振る舞いをするんだろうという風に見えてしまう。
おそらく、「また全然違うスオミだ!」というスオミ七変化的なバリエーションとかギャップでコメディを狙っているのだと思うのだけど、それによって一番大事な「スオミ」という人の人生そのものが蔑ろにされてしまうのはちょっと本末転倒なんじゃないかと思った。
キャラクターの切実さに対する不誠実な手つき
結局その調子で道中で散々登場人物の切実さより笑いが優先されている描写を見ていくことになるので、「スオミがなぜいなくなったか」っていう結論に至って、この物語を真面目に受け取るべきなのか、ふざけたコメディとして受け取るべきなのかよくわからなくなってしまった。どんどん即物的なギャグのために真剣味が失われる描かれ方になっていると思うし、そうやって切実な行動原理よりその場の笑いが優先されることで、劇中本気で何かをしようとしている人は一人もいないように映ってしまう。
なんでそんなことになるかっていうと、僕は作り手が登場人物たちを人間として尊重してないからだと思う。
この映画の中で、警察も、YouTuberも、詩人も、それがその人のアイデンティティとして描く気は全然無く、ギャグの材料か物語の都合としてしか扱われない。その最たる例がスオミというキャラクターだと思っていて、彼女に真剣なテーマを背負わせながらこの映画自体が終始それと向き合っていないように感じた。
別にナンセンスにふざけ倒すコメディがあってもいいとは思う。だけどこの映画は「結婚生活で抑圧される女性」っていう現実にもある、真剣に語るべき要素を扱っているのだから、そこはきちんと、誠実に描き切らないといけなかったんじゃないかと思った。一応スオミにとっての解放的な着地をするラストから、さらに6人目の夫のエピローグがつくのとか本当に意味がわからなかった。
三谷幸喜がプロモーションで話していることによると、どうやら「こういう場面がやりたい」というワンアイデアから脚本を膨らませていくらしいので、それは起承転結的には破綻するかもなあと思ったりした。単発の描写一つ一つが持ち味なのかもしれないけれど、単純な好みの問題に加えてキャラクターの尊厳を犠牲にして笑いを取ろうという態度に笑えなかった。