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動機づけ研究が教えてくれないことを考えなくちゃね

今日で3日め。
こうやって人目に触れる可能性のある媒体で文章を書くというのは,独特の楽しさがあるね。
楽しいことは続く,楽しくないことは続かない。
それは当たり前のことだけど,ここから習慣にまでなるかはわからない。
ここが苦労するところだよなぁ。

これまで習慣化しようと思ってできなかったことはたくさんある。
英語の勉強とか,文章を書くこととか(いままさに!)。
毎日継続できない自分をふがいなく感じることもあるけれど,そんなもんだよなとも思ったりする。
なにより,細々と続いていることが大事だ。

そうは言っても,一時期ぐわーっとはまって数ヶ月続いたりすると,この調子で習慣化していったらとんでもない英語力が身についちゃうかも?!とか,1年に5本くらい論文が書けちゃうかも?!とか,舞い上がっちゃうんだけどね。
結局いろんなことが重なって,ナシのつぶてになっちゃうんだよね。
それは家庭がらみのこともあるし,仕事がらみのこともある。
自分が主導権を握れない雑事が降り掛かってきて,その対応に追われることもある。

これらはよくあることかもしれないんだけど。。
ここのところ,新しく生まれてきたパターンがある。
それが,「意味」の問題だ。
要するにこれは,自分の生き方の問題なんだな(1日ぶり2度目の気付き)。


というのも,これまで僕は20代を夢の実現のために費やしてきたと言っても過言ではない生活を送ってきたんだね。
なりたい理想の姿があって,そこに近づくために具体的な目標を設定して,その目標を達成するために中長期的に何をしなければならないかを計画して,そのタイムラインに沿って考えれば,今日何をしなければならないか。
そうやって,いつもの日々を未来の目標のために合理化するように生きてきた側面が強い。

その末に,なんとか自分の思っていたところへたどり着いた。
イメージ的には,荒波を泳ぎきって対岸に手がかかった感じ。
でも,そうやって泳ぎきって陸に上がったとき,その先には広大な大地が広がっていて,ここまで必死に泳いできたけれども,ここから先はどうも「泳ぐ」場所ではないような…?

そんな感じなんです。

習慣化というのも,戦略的に自分の日常をデザインするための方策なんだね。
動機づけの研究にはいろんなアプローチがあるけど,習慣化はキーワードのひとつ。
つまりは,個々人の意志の力に頼り切りにならないほうがよい,という考え方がそこにはある。
たとえば,環境を整えるとよいと言われる。
運動を続けたかったら,お気に入りのウェアを買おう。そうすればテンションが上って続けやすくなる。
さらに,朝,家を出る前,玄関にウェアとトレーニングシューズを設置しておこう。そうすれば,帰宅したときにすぐに着替えられるから。
もう一押し。友達といっしょに続けよう。そうすればお互いに励まし合って続けられるから。
こんな調子で,環境を整えることで,無理なく自然と行動が続きやすくなる。

これは一例で,他にもいろんな動機づけのテクニックはある。
いわく,できるだけ具体的な行動に分解してハードルを下げよ。
いわく,いつ・どこで・どのようにやるのかを事前に設定せよ。

このように工夫を重ね,なんとかして行動が続いていくと,だんだん習慣化して,無意識的にできるようになってきて,そうすれば目標に近づくための行動が日常生活に組み込まれる,というわけだ。

いまも何か始めたい,続けたいと思うことはあるから,これらの手法を使って習慣化しようと目論み,実際にそうしてみてもいる(上に書いたように,英語とか文章書きとか)


なんだけど。
問題はここからで。

こういう動機づけ研究の成果は,「どうしたら」には答えてくれる一方で,「なぜ」には答えてくれないんだね。

「なぜ,他ならぬ私が英語を勉強しなくてはならないのか」
「なぜ,他ならぬ私が文章を書かなくてはならないのか」

この問いには他の誰も答えてはくれないわけで。
目標と現在地との間にギャップがあって,自分はもっとできるはずだという自負があるからこそ,そのギャップを埋めようという燃料が生まれる。
僕の場合は,それは「割に合わない」という思いだった。
夢を追いかけるのは美しいけれど,夢を追いかけているのにそれが実現していない状況は,はたから見ればどうしたって滑稽だ。
こんなに頑張っているのに,称賛されるどころか笑われるなんて,「割に合わない」。
こんなに頑張っているのに,自分よりも実績が低いあいつがポジションを得ているなんて,「割に合わない」。

そんなくすぶった思いを抱えながら,荒波を泳ぐのは並大抵のことではなかった。
だから,自分がすごいと言いたいというよりは,それでもなんとか泳ぎをやめないで,どうにかこうにか泳ぎ続けるのには,それだけ頑張る「意味」が自分の中で明確だったからでもあるんだなと,いまになると思うんだね。
どうしてもこの目標を達成したい。
夢を叶えた自分にどうしてもなりたい,と。

それが,ひとつの目標を達成して3年が経ち,ここにきて「割に合ってきたのかもしれない」と感じるようになってきた。
つまりは,「泳ぐ」ための燃料が切れてきた,ということらしい(泳ぐための燃料なんて,変な表現だけど)。
当時の自分に言ったら信じてくれるかわからないね。

さぁ,ここからどうしていこうかなぁ。

あ,このnoteは結論らしい結論を書いていないけれど,それは「ない」から書けないんだね。
なーんだ,しょうもない,と思わせてしまったかもしれない。
でも,発信するからには有益な情報を!という風潮があると思うけれど,答えを言い切ることだけに価値があると僕は思っていなくて。
むしろこういう悩みの渦中にあるみたいなことが言いにくいからこそ,逆説的に「意味」があるのかもなぁ,なんて思っています。

なんて言い訳をして,今日は終わろう。
僕が次に見出す「意味」はなんだろう。



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