見出し画像

それでも書きたくなっちゃうのは,なぜだろう

なかなか忙しくて,更新がいまになってしまった。
今日はもう書かないでもいいか,とあきらめそうになったけれど,
やっぱり書きたくなった。
何かこれ,というテーマがあるわけじゃない。
でも,書いているうちに,なんだか書きたいこと,言いたいことが生まれてくる。

最近,エッセイや小説についての本や,ライターや作家の方がどんな仕事をし,どうやって生計を立て,どんなことを感じ,考えているか,というような本をよく読んでいる。
今日はライターの佐藤友美さんの本を読んでいた。
その中で,こんな感じのことが書かれていた。
エッセイは,書くうちに自分でもわかっていなかったことが生まれてくると面白くなるけど,予定調和なまま書き終えてしまうと面白くならないことが多い。
というような内容だったと思う。

長年一線で活躍されている著者に自分を引き比べる厚顔無恥は承知のうえで,わかるなぁと思った。
僕が今日もnoteが書きたくなったのは,もちろん見てくれている人がいる,反応がもらえる可能性がある,という理由もあるけど,書くこと自体が自分の新たな一面を発見する,そのアドベンチャー的な面白さがあるから。
というのも大きいんだね。

この話の連想で思い出すのは,哲学者の鷲田清一さんの次の言葉。
「ディベート(議論)は自分の意見を曲げたら負けだが,ダイアローグ(対話)は自分が変わっていなかったら負けだ」。

ふだん書く硬い文章はディベートの要素が大きくなる。
自分の主張を論理で支え,妥当性を証明する。
これはこれで醍醐味があり,その論証が認められることの喜びは唯一無二だとも思う。
でも,論戦ばかりはしんどくなるんだよね。
何かを主張するということは,何かを否定することと地続きだから,どうしたって「戦い」のニュアンスを伴ってしまう。

エッセイは,ダイアローグの要素が大きくなる感覚がある。
書いているうちにみえてくる。
悩んでいたことや,気にかかっていたことから,一歩進める瞬間がある。
ここからが不思議なもので,そんな極私的な作業なのに,それを読んでくれた人となにかが共振することがある。
それは,エッセイにしかない醍醐味だなぁ,と思う。
ここには,「つながり」の手触りがある。

だから,こうして,ついつい更新しちゃうんだろうな。
まぁ,こんな文章をエッセイと呼べるのかはわからないんだけど。
少なくとも自分はそのつもりで書こう。

今日はいつもより短いけど,ここまで。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?