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11. 数学を通して英語教育を考える~英語の本質理解は運用能力向上につながる~

 今回もお読みいただきありがとうございます。
 今日は、数学を通して英語教育について考えたことを記します。

 私は数学が好きです。
 高校では理系専攻科だったので数学は全範囲学びました。
 それでもしかし、大学では文系学部への進学を決めていましたので、私立大学(文系)の3科目入試は、英国社ではなく英国”数”で受験しました。

 大学進学以降、数学に携わることなく生きてきたのですが、時折、無性に高校生のころ触れていた数学の論理的思考と再度たわむれたいときがありました。

 自分の頭の中にある抽象的な考えを明瞭完結かつ理路整然と日本語に表せたような達成感を、数学の問題を解くことで疑似体験できるところが魅力だと思っています。
(*学問としての数学はそんなに単純なものではないと承知しております。)

 AIが話題になる前から、数学が世の中でどう“活躍”しているのか、興味があり、数学に関する本を読んでいたのですが、最近、次の文章に出会いました。

東大に入れただけあって、われながら問題は解ける。しかし、どうも胸のつかえが下りない。なんだかモヤモヤするのである。「このモヤモヤ感はいったい何だろうか。」と考えるうちに気がついたのは、こういうことだった。

自分には問題を解く技術(スキル)はある。
しかし、数学の本質はわかっていない。

畑村洋太郎『直観でわかる数学』「長めのまえがき」から

 なるほど。
 とても共感しました。
 私の数学に対する欲求は、単に問題を解きたいという単純なものでした。問題を解くだけの作業が私にとっての数学でした。
 数学がどう役立っているのか、具体的に学校で教わった記憶はありません。

 参考のため、数学の学習指導要領をみてみました。
 中学校・高等学校の双方にも共通している目標は下記のとおりです。

数量や図形などについての基礎的な概念や原理・法則などを理解するとともに、事象を数学化したり、数学的に解釈したり、数学的に表現・処理したりする技能を身につけるようにする。

中学校(平成29年告示)・高等学校(平成30年告示)「学習指導要領(数学)」より

 素晴らしい理念です。
 ですけど、私個人が受けてきた数学の教育は問題演習に終始していました。
 事象の数学化、だとか、事象の数学的解釈、など聞いたことありません。大学の入ってからの数学がめちゃめちゃ難しかったという話は聞いた記憶が残っています。

 そんな苦労話はさておき、学校の先生には、大人として、数学をより深く知る人間として、数学の実用性や魅力を教わりたかったです。

 ん!?

 ちょっと待て。
 英語に置き換えてみるとどうだろうか。

 似たような要望は英語にも言えるのではないだろうか。
 私(たち)は英語の授業で、問題の解き方を教わっていなかっただろうか。
 助動詞の後には一般動詞の原形が来る、とか、法助動詞haveの後には過去分詞形がくるとか、そんなルールに全神経を注いでこなかっただろうか。
 だから、私が大学に入った時、英語が使えなくて愕然としたのではないだろうか。
 私は英語の知識があれど、英語の本質をとらえられていなかったのではないだろうかと考えました。

 運用能力とは、言い換えれば、英語の本質を理解する、ということではないだろうか。
 単語帳を見て、単語の定義・日本語訳を覚えるのではなく、そのコアミーニングをつかむことが大切なのではないか。

 最近、理系専攻者が英語をどのように学習すべきか、理系専攻者に英語をどのように指導すべきか、よく考えます。
 実は理系専攻者でなくとも、英語を専攻としていない人たち全般、頭にある英語の知識をうまく使えるための方策はきっと需要が高いはずです。
 畑村洋太郎さんが数学について言っていたような、”英語の本質”さえ明らかにできれば、英語の運用能力を育てられるのではないか、と考えています。
 英語の指導者として、”英語の本質”をどうとらえるのか、探求の旅が始めたいと思います。

 このテーマ、続編を書くかもしれません。その時は、また、お付き合いください。