生きる学び
愛は依存ではない。愛は共存である。互いの個性と信念を尊重し、互いに助け合って歩んでいく事が愛であると思う。
本当にその人を愛していたら、自分自身と同じように、その人の自由意志を尊重し、その人を束縛したりも行動を強いたりもしない。
同じ時を共に過ごす幸せを感じる事も愛であるし、同じ場所で別々の事をしている間でさえも、そこには愛がある。また、全く違う場所で違う事をしていたとしても、魂と思いは繋がっているのだから、愛を感じる事が出来る。即ち、愛は何処にでも存在し、自身が感じれば愛は生まれる。
そして、会っている時はお互いの愛を再確認する事が出来るが、会えていない時間もより一層愛が増し、愛が育まれる。
宗教的な見解になるが、一生を約80年として計算すると、神の目から見て人生はたったの約114分しか存在しない。その短い時間を有益に使い、愛する人を心から信じ大切に思いたい。
覚醒から更に魂と精神が強くなってきているというか、本来の自分を知り徐々に自分のハイヤーセルフと繋がってきたように思える。
宇宙の中のそして地球という惑星の中の、日本という東京の端っこに存在する私。あまりにもちっぽけで、今までの悩みや過去に捉われていた出来事は宇宙のチリ程ちっぽけで些細なモノ。
今現在、そして将来における悩みは全くないし、存在したとしても大した事ではない。だから、誰が何をいおうと、他人にどう思われようとも私には関係ない。
自分を信じ、直感に頼って生きていけばいいし、流れに身を任せていれば大丈夫。一見主体性のないようにも見えるが、そうではなく、無駄にあがかず抵抗しないで、目の前の出来事をありのまま受け入れるといった姿勢。そして、拘りと固定概念を捨て、今与えられている時をシナリオの中でアドリブで生きるという軸を持った生き方。
兎に角、右へ曲がろうと左へ曲がろうと、真っ直ぐ進もうと自由であり、道は繋がっていて、行き止まりであれば道を自ら切り拓けばいいし、それが違うと思うのであれば、元来た道を戻り、行き先を選び直せばいい。
どんな道を選ぼうと、それぞれの結果が違うだけだが、それは間違えではない。でも、もしかしたら運命は決まっているのかもしれないが…。どちらにせよ、それが定。だからその定めをありのまま受け入れて生きる。そう、信じ確信している。
“絶対”という言葉は本来なく、それは不確実で弱い人間が作った虚構なのかも知れない。人は弱いけれど、弱くていいし、強くなくていい。だから強がる必要なんてない。でも、強がる事も人の弱さだから、それはいかにも生身の人間らしい。
仏教に「色即是空」という言葉がある。本質は空であり、不変なものは何一つ存在しないという意味だ。万物は全て移り変わり、人は特に不完全であるから心変わりし易い生き物であるという事がわかる。
しかし、このようにも捉える事が出来る。ー「いくらでも良く変化する事が出来るのは、人間の良い性質であり、大いに伸び代がある」のだとも思える。
生と死に深く思いを馳せ、生を思いきり全うしようとしたその時から、人は変わる事が出来る。自身の生き方を見つめ直すのに、遅過ぎるという事はない。今から行えばいいのだ。
人生を通り過ぎるのではなく、悪戯に人生を無駄にするのでもなく、ただ人生を送るだけの受動的な生き方を今から辞めよう!
日々与えられている時間と命は有限である。だからこそそれらに感謝し、懸命に生きれば、自ずとその時を大切に使おうと決心し行動に表すことが出来る。
2000年前のローマの哲人・セネカが語った一節を『死ぬときに後悔しない方法』から引用し参照したい。「(長生きしなくとも人は)人生を生き尽くせば、人生は十分に長い」と。
神の目から見て人生は一瞬でも、その一瞬を懸命に生きれば、人生は人にとって十分なのかも知れない。