母の介護から「選択肢のない人生」を考える

2週間前から母の入浴介助がスタートしました。
足腰が弱い母は、普段の歩行だけでなく、入浴の際も危ない感じでした。正確には、母の入浴の様子は見たことがないので、本当のところはわかりませんが、たまに「お風呂場で転びそうになるから心配だ」と話していました。いろんな器具や設備を追加してきたけど、「そろそろ限界かなぁ」と感じていました。もちろん、ケアマネージャーさんも賛成して下さり、「最初は週一回でスタートして、様子を見ながら増やしていきましょう」ということになりました。

当初、母はあまり乗り気ではありませんでしたし、私も初めてのことだったので心配はありましたが、実際に家に来て対応してくれたヘルパーさんは親切で、安心して介助を任せられる感じでした。さらに、母の入浴時間の以前の半分くらいになったこともあり、私は「早々に介助の回数を増やしたい」「私だけでなく、母もお風呂場での転倒の心配がなくなり、安心して入浴できるのはずだ」と思いました。そのことを母に相談したのですが、なぜか母は入浴介助の回数を増やすことに、とてもネガティブな反応を示したのです。

正直、理由を聞いてもよくわかりませんでした。もしかすると、明確な理由はなくて、感情的なものだったり、「なんとなく」だったりするのかも知れませんし、お金の問題だったり、そもそも「自分ひとりで入浴できるのに、どうして介助が必要なのか?」という疑問があるのかも知れません。とりあえず「次回の入浴介助の後で、問題点などを話し合ってから、今後どうするか決めよう」ということになりました。

翌日、そのことをケアマネージャーさんにも伝えたのですが・・・
「息子さんがお母さまの気持ちを尊重したいと思っていることは理解しますが、お母さまにとって、それが本当に良いことなのか考えたほうがいいですよ」「最近、お母さまは物忘れも進行しているようですし、判断力も鈍っている可能性があります」「現在のお母さまの状況では、お風呂場での転倒が心配になり、入浴介助をお願いするという息子さんの判断は正しいと思いますよ」
・・・と私の判断を尊重していただいたうえで、このようなアドバイスをして下さいました。

私は「選択肢がない人生は不幸になりやすい」と考えています。例えば、「お金がないから〇〇できない」、「親が許してくれないから××できない」などはわかりやすい例かと思います。自分が判断して、良いと思ったことについて、何らか制限があって行動できないということは、その人の自由と幸福感を奪うように感じるのです。
そのため、今回の件についても「母の思いや考えを尊重したい」「そうしないと、母は楽しく生きていくことが出来ないのではないか」と考えていて、「母が納得しないのであれば、無理やり前に進めたくはない」というのが基本的な考えです。
しかし、母の判断力が本当に落ちているのであれば・・・そのときは、母の合意がなくても、私自身の考えで無理やりに物事を前に進めなければいけない場合もあるのだろうかと悩みます。
母が入浴介助を拒否したとして、そのためにお風呂場で転倒して大惨事になった場合に、私は「それは母が選択したことだから・・・」と割り切れるだろうか?
逆に母の気持ちを無視して入浴介助の話しを進めた場合、それで母が何も問題なく入浴できるようになり、長生きしたとして・・・それは母にとって本当に幸せな人生なのだろうか?

そして、私が「母のために・・・」と思う気持ちは、本当に「母のため」なのでしょうか?
もしかすると、私は「私自身の安心のため」に言っているだけなのではないか・・・とも思っています。これは私自身の過去の反省でもありますが、「〇〇さんのためを思って・・・」とか「あなたのために言っている」なんて言葉は、大抵の場合は「自分自身のため」なのでは・・・という気がしています。今回の件も「母のために」と思いつつ、心のなかでは「自分自身が安心したい」「自分が楽になりたい」という気持ちなのでは・・・という考えも否定できません。

これは一般論としての話ではなく、私と母の関係でのことになりますが、母は私が介護をするようになってから・・・特に最近になってからは、私のやることや意見に対して、母が否定することは少ないのです。そんなこともあり「母が入浴介助に否定的な理由は、何か理由があるのでは?」という気持ちが正直なところなので、母とは出来る限り丁寧に対話を進めていきたいと思っているのですが、それが本当に正しいのかは、「正直なところわからない」というのが本音です。

危険を承知しながら、母に選択肢を与えるべきか、安全を最優先に考え、強引に入浴介助の話を進めるべきか・・・。
「年老いた母にとって、どちらが幸せなのか?」と、問いかける日々を過ごしています。

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