【ネタバレ】アンドリュー・ヘイ『異人たち』You Were Always on My Mind And Always Will Be
傑作。アンドリュー・ヘイ長編五作目。山田太一『異人たちの夏』映画化作品。原作は未読だが、大林宣彦版は鑑賞済なので比較してみると、まず再会そのものが甘美でないことに驚いた。そりゃそうなのだが、大林版は人生に行き詰まった中年男が、楽しかったであろう子供時代の続きを演じ直すことが中心にあったので、言ってしまえば幼稚な印象を受けた。本作品では二度目の訪問で(会話の流れでとはいえ)母親にカムアウトしており、その母親の典型的な反応も"何度もシミュレーションした結果の一つ"だろうと想像できるため、再会は必ずしも甘美でないし子供時代の続きすらも甘美なだけでない。だからこそ、浸るだけではなく向き合う必要がある。アダムは両親についての脚本を書いていると言っていたのと、後半のサイケデリックな悪夢横断から察するに、両親にカムアウトできていたらどうなっていたか?というシミュレーションが具現化したような形なんだろう。それは子供時代から今も引き摺る孤独感とこの先もずっと独りだという恐怖との戦いで生まれたある種の逃避所のようでもある。実家の飾り窓から外を眺める瞬間が二回訪れるのは、自分がそこに囚われていることの証左だろう。両親との再会は、無数のifの中から本人の考える最も良い形で彼らとの関係に決着を付ける、過去と新たな関係を気付くためのものなのだ。
次に比較したいのは大林版のケイと本作品のハリーである。正直なところ、大林版におけるケイの挿話は説明的な上に両親再会譚との関連を見いだせなかったが、本作品のハリーの挿話はアダムを介して大いに関連している。こちらが本家くらい自然に。アダムの父がアダムに対して言った"生き延びたことを誇りに思う"という言葉を借りると、若きハリーは"生き延びられなかった自分"なんだろう。その意味で、アダムの両親の挿話と、自身の両親とほぼ縁が切れてるというハリーの挿話は、アダムの内的な時間軸の中で繋がっているのだ。アダムはハリーに心を許しその中を語りだすのは、過去の自分と向き合ったことに他ならない。
本作品では窓が印象的に使用される。ガラスの反射と透過を併用したり使い分けたりすることで、世界との距離を測ったり、人を重ね合わせたりしている。冒頭から見事で、窓ガラスが世界と自分を隔てながら、同じ画面に世界と自分が重なり合うという"世界との距離"を提示している。二回目の訪問で、ドアのガラス越しにアダムと母親の顔が重なるのは、両親の存在が上記の通りアダムの内側から発生しているものだということを示唆しているのだろう。また、序盤でアダムは鏡をほとんど見ないのも興味深い。あるべき場所に鏡はあるし、画面にも映っているが、鏡の中の自分とは目を合わせようとしない。初めてハリーに出会うシーンでは、鏡に写るハリーを映すことで二人の視線は絡み合わない。アダムが鏡を見る瞬間は三度訪れるが、一度目は子供時代の自分が映っており、残りの二回はこれまでの時間と向き合う決意を固めたときだった。本作品で鏡というとやはり印象的なのはエレベーターだろう。アダムは合せ鏡の奥まで無限に続く自分と向き合い、共に生きる道を選んだのだ。
追記
Pet Shop Boysの"Always on My Mind"が予告編で流れたときから本編でも流れるか気になっていたが、一番クリティカルなシーンで流れた。歌詞まんまだもんなと思いつつ号泣した。
・作品データ
原題:All of Us Strangers
上映時間:106分
監督:Andrew Haigh
製作:2023年(イギリス)