可能性の幸福

これは「現代経済学の直感的方法」という本の感想であるが、経済学の本からタイトルのようなキーワードが示されるとは思ってもみなかった。個人的にも一番重要なキーワードであると思ったからタイトルにも掲げたが、僕の中でこのキーワードをどのように応用していくのか明確な道筋は、今のところまだ無い。

それまでは、「経済学」や「資本主義」という言葉は大きすぎて捉え方が難しい上に、僕の半径1mには入ってこないものと考えていたようだ。といっても興味はあった。実のところ、全く関係ないとは思っていない。だが、その言葉を知るための膨大な勉強というか調査というか、そういったものの先にあるものが見えないうちにいきなりモチベーション高く取り組むほど、僕も単純にも出来ていないのだ。しかしこの本はその導入からその将来性、つまり勉強の先にある世界観まで、一気通貫で理解させてくれる。著者に失礼承知でいえば、少なくとも理解できた気にはなる。マクロからミクロまでのレベル感もきちんと整理されている上、それぞれのストーリーが明確に組み立てられているため、読者を迷子にさせることもなく、僕が知る範囲での「資本主義社会」でなく、将来勉強した後に見えるであろう世界観を見せてくれている。ただ、著者も自身で述べられているように、この本1冊で網羅的に詳細な部分も含めて整合を取るような説明ではなく、多少の誤差は許容の上、その全体像をこの1冊で見せるてやろうということを主眼としている。そのため、これを他者に教えようなどとするレベルまでの情報はやはり自分で収集・勉強などする必要があるが、最も大きなレベルでの体系をまずストーリーとして理解し、その後に各自が自分の必要な範囲で補足するのが、この本の最も有効な使い方であると考えられる。

1.資本主義社会はなぜ止まれないのか。

2.農業経済はなぜ敗商工業経済に敗退するのか。

3.インフレとデフレのメカニズム。

4.貿易はなぜ拡大するのか。

5.ケインズ経済学とは何だったのか。

6.貨幣はなぜ増殖するのか。

7.ドルはなぜ国際経済に君臨したのか。

8.仮想通貨とブロックチェーン。

9.資本主義の将来はどこへ向かうのか。

などなど経済に関して疑問に思うような点を直感的に理解できるような図と共に説明するしてくれるので、今までバラバラであった言葉が体系だっていくような感覚になるのである。一つの身近な話題として銀行の役割は腑に落ちた。経済活性化のためにお金を回した方が良い。そのために消費を増やすような対策を取った方が良いとはよくTVなどでも言われていたが、そのお題があまりにも生活レベルとかけ離れているため、「経済活性化のために個人消費も増やした方が良い」とはどうも考えにくかった。逆に現在、様々あるリスクを避けるため、貯蓄に回した方が良いとも個人的には考えてしまうところがあった。そこには全体と個人での矛盾があるとも感じていた。しかし、この本によると、それはそれで良かったのだ。つまり個人の貯蓄はイコール銀行預金である訳で、銀行はその預かり金から準備金のみを残し、投資へ回すのだ。逆説的に考えてみるが、もし投資に回らず個人のタンス貯金のみが増える場合、社会全体に出回るお金の総量は減っていく一方である訳で、つまり自分の会社の売り上げも減る、自分の給与も減る。といった負のスパイラルに入ってしまう。マクロで考えれば確かにそうなる。しかし、その負のスパイラルへの導入を抑制するために、銀行の投資・融資といった機能が存在する。銀行の融資部はドラマなどでも話題になり、負の側面にも注目されるが、このような本筋を忘れてはいけないとも思う。また、経済学で言うところの国民所得=消費+投資が成立するのはこのような理屈によるのであり、教科書から入ると、投資がなぜ所得に含まれるのかといったことが分かりにくいのだが、この様にして直感的に理解させてくれている。これはほんの一例であり、著書の中では図ともっと丁寧な説明があるため、気になる方は確認いただきたい。ここでは内容説明はそれくらいにしておき、著者の提示するキーワードに注目したい。

以下著書からの抜粋である。”これまでの経済学を一種の力学として眺めた場合、その根本原理とは要するに「われわれの経済社会は、欲望を満足させて利益を最大化させようとするただ一つの力で動いている」ということである。つまり、もし経済社会の中に存在する唯一の力がそれで、その力が縮退(*1:世界経済規模をその取引額で判断する場合は、現在は繁栄していると言えるが、グーグルやアマゾンといった一握りの巨大企業だけは繁栄し、その他企業は捕食されているとも考えられ、これが衰退か繁栄かは一言で言えないことになり、そのような一筋縄ではいかない状態を「経済が巨大企業に縮退している」と表現している。)方向にしか向かわないのだとすれば、その進行が止まることなどあり得ないことになる。”とある。ここで詳細は省略するが、歴史的に見てこの縮退をその内部の力だけで止めることはできず、外からの別の文明などが外力として反対方向の力の役割を果たしてきたようだ。しかし、著者はその責任感にもかられ、「だから何をやっても無駄」という結論にはしておらず、以下にある様にキーワードを提示している。

逆説的な問いとして、もし貧困や環境問題の全てを解決した上で富を極大化し、資本主義社会が繁栄の極みに到達したとすれば、本当にわれわれは幸福のゴールに達するのかと問うた時、どうもそうではないと言うことは誰でも感じることではあるまいか。むしろ貧困にあえぐ国よりよりも、豊かな先進国に住む若い世代において、生きる目標を見つけることが難しい状況にあり、その閉塞感の中で絶望を強いられていて、そこからの脱出こそが最大の問題と感じているのである。(中略)要するに実際に人間が何かを得て幸福感を覚えるときというものは、ほとんどの場合その隣に「想像力」というものが影のごとく寄り添っているのであり、それが伴わない場合には外面的に何を与えられても人間は空虚感しか感じることができないのである。それは、人間は外面的な幸福それ自体は吸収することができず、人間の心の中で「想像力」という酵素が作用することで初めて吸収できる状態になる、ということである。ここではこの可能性(想像力)の中に莫大な資産が眠っている状態の方が幸せを感じるのであり、それを「可能性の幸福」という概念として、資本主義社会に唯一作用する力に対する、もう一つの力として作用できないかというものである。さらに重要な部分だけを抜粋していくと、その「可能性の幸福」は家族(子供)や地域の人々とも共有できる種類のもので、それらを最大限活用するには、一種の「大きな物語」を皆で共有することで行ってきており、例えば宗教、愛国心、郷土愛、歴史の物語、文明の進歩に参加する感覚など、そのバリエーションは様々である。また、一度大きな共有を経験した文明の方が縮退しにくい傾向があるとも述べている。

上記抜粋によると、縮退の第1歩は閉塞感(=可能性が感じられない状態)であり、その対策としての「可能性」というものに注目している。以下は私見であるが、ここでこの「可能性の幸福」のために「大きな物語」を作る場合にはある種のパラドックスが生じることになりそうである。つまり、宗教、習慣、歴史は(それぞれの建前とは裏腹に、)成立した時代のある種の閉塞感を打破・改善しようと組み立てられたり、国内統制のために強力な軍事力とともに強制をした結果である事例が多いと個人的には考えている。言い換えると、ある種の困難に立ち向かう状況において、社会・文明レベル全体としての結束が生まれ、宗教・改革・戦争などが起こり、その時代・状況でのの国民らの横の繋がりが、先の「可能性」に繋がるとも考えられるのだ。つまり、資本主義社会という大きなもののシステムを変えるのも外部の力が必要との著者の見解であったが、対抗するための「大きな物語」を作るにもその社会・文明の外部の力が必要となりそうなのである。そう考えると、人間個人は別としても人間社会全体としての限界の様なものを感じてしまう。しかも個人は社会の影響を確実に受けるので、常に全時代を通して、不満が溜まってしまうことになる。個人的なブレストでいきなり負のスパイラルに入ってしまった。

社会全体を考えるには時間が足りないが、個人的には確実性よりも可能性を感じる方向に進みたいと思っている。が、この時の「可能性がありそうな方向性」として、収入・収益の増加のみの一本槍だと上記の様に最終目的地についても、なんのためにやって来たのか、という状況になりかねない。手段と目的が混同されている。成長のモチベーションは収入の増加でなく、成長すること自身であるとは、ビジネス書などでも言われるが、誰もその目的自体は明確にできていない様に思う。昔の哲学者などは、仕事を効率化するのは音楽や詩を作る時間を確保するためだと述べていたが、個人のレベルでは趣味、社会のレベルでは文化と呼ばれる様な時間を楽しむことが目的とも言える。子供の可能性はイコール自分の可能性とも感じられるため、子供の重要性はこの様な面からもいうことが出来る。建物や空間を感じる時も、楽しそう、快適そう、オシャレそう、といった感想を持つことがあるが、これは根拠を持って、こうだから楽しい、といったものではなく、そう感じられることの方が重要なのだ。これはつまりその様な可能性を感じさせることの方が、実態よりも重要であるとも言える。現実<可能性という不等号が成立しそうである。人間は辛い現実に立ち向かうことはできるが、閉塞感に苛まれた場合、その人の立場がどうであれ、立ち向かうことが難しい場合もある。その場合には活路(つまり可能性)を見いだすことが唯一の救い出す方法ともなる。

少し脇道に逸れたが、これはつまりどの様に生きるか、またはもっと大きな話で考えると、何のために人は生きるかといった哲学的な思想となる。個人レベルに話を戻すと、人間が幸せを感じる触媒が想像力や可能性であるとすれば、その方向性(目的)は何でも良く、あまり重要でないのかもしれない。可能性さえあれば。

#読書感想文 #経済 #建築 #本

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