見出し画像

【読書感想文】某(ぼう) / 川上弘美

📚内容(BOOKデータベースより)
名前も記憶もお金も持たない某は、丹羽ハルカ(16歳)に擬態することに決めた。変遷し続ける“誰でもない者”はついに仲間に出会う―。愛と未来をめぐる、破格の最新長編。

📚読書感想文
彼(あるいは彼女)は、からっぽで生まれる。生まれた背景も持たないし、家族も名前もない。感情も曖昧である。
人格を満たしていくには、社会や他者と関わり合っていくことが必要不可欠である。社会との摩擦で生まれる立場や人生観。他者と関わり、自身と比較検討して明らかになっていく感情や人格。彼(あるいは彼女)は、それを一からやっていくのである。
現代人の抱える「自分のアイデンティティとはなにか。どう確立させるのか。」という問題に、手を差し伸べてくる小説であるように感じた。

(以下、ネタバレを含みます。)

アイデンティティとは、どこからくるのか。
いつから生まれ、どのようにして形づくられ、何によって確立するのか。
たいていの場合、なんとなく気がついたら、だろう。あるいは、自分にはない、と感じるかもしれない。でもたぶん、あるのだと思う。なぜなら、わたしはわたしで、あなたはあなただから。
たいへん不思議な小説だった。そもそも設定がぶっ飛んでいる。だからといってファンタジーという風でもない。あくまでも現代小説の形をしている。ほんとうは何十年にもわたる長期間を描いたものなのに、まるで数年みたいに感じる。多数の人間を扱っているようでもあり、ひとりについて語っているようでもある。そして、それらはすべて、そのとおりである。
アイデンティティの確立 とは、全人類に課せられた人生のテーマだと思う。わたしとは何者か。なにが好きで、なにが得意で、なにに執着していて。人との関わり方。どう生きるか。等。
よし、確立しよう!と思い立って、かんたんになせることではない。ひとりで達成できる課題でもない。わたしたちは、社会や他者と関わることで、そこで生まれる共感や反感、摩擦や比較を経て、自分を知っていくのである。

例えとして適切かはわからないけれど、恋人や友だちによって、人が変わったようになる者がいる。ファッションやメイク、食や音楽の好みや、趣味、影響は多岐にわたる。
それらは少しずつ取捨選択をされ、ほんとうに自分のこころをつかむものが残っていく。あるいは、カメレオンのように変化していくのが真の姿である場合もある。
それを経て、その個体は確立していく。

「某」たちは、まず生まれた背景を持たない。両親もない。家庭環境もない。それらははじめに人間たちがかかわる"自分でないもの"なのに。だから彼らはからっぽである。
なる人間によって、容姿も性格も自在に変化させる。まずハルカ、春眠、文夫のパートで、様々な立場から見た同じ環境が語られる。病院と学校である。学生の見方、異性の見方、一番わかりやすいのは水沢看護師への評価だろう。「某」は、以前の自分と現在を比較検討して、その人格を自覚していく。
そしてマリのパートでは、病院や学校といった限られた社会からの脱却が描かれる。社会に出て、様々な他者とのふれあいを持つ。社会における自身のあり方を考え、他者にとっての自身の存在についても考える。ラモーナのパートで、それは国境をも越える。片山のパートでは同種の者と出会い、刺激される様子が描かれる。ラモーナ以降には共感について言及されることが目立つ。そしてひかり。人間として完成されていく「某」を見守ることになる。
シグマが分裂して、その片方を抹殺したことについて。わたしたちは、相反する感情をいっぺんに抱えることがある。正義と欲望、本能と理性、希望と実際 というぐあいに。どちらかに軍配が上がり、それは行動に移される。あの一件は、それを表していたのではないかと思う。アルファの手を借りたにせよ。
ひかりになり、みのりに合わせて変身をおこなっていた「某」は、いよいよ変身できなくなる。成長するようになった。のちにこれは、「某」が人のため(彼女の場合はみのりのため)に生きているからではないかと推察される。
だとすれば。
数十年生きてきた「某」は、ようやく、自身の決定だけでなく、他者とのかかわり合いをもって人格形成するようになったのである。ひかりのアイデンティティは育っていた。

アイデンティティとはなにか。自分のものとして、どう確立させるのか。それはわたしたちが人生をかけて挑まなくてはならない問いかけである。本書では、解決の糸口を垣間見た気がした。

この記事が参加している募集