バターいらない君へ
今日もいつものように、町のケーキ屋の悪口を言い合っていた。
あそこは美味しいけど、バターを使い過ぎていて食べきれない。はたまた、あのケーキ屋は美味しい。レモンケーキがさっぱりとしている。
なにしろ世の中の食べものは油にまみれすぎているから、食革命を起こした方がいい。
と、彼女は決まってこの結論に至る。
そうして必ず、革命を起こすにはひとりでは無理だから、同盟を組まない?と問いかけてくる。
僕といったら、食べものはこってりしているだけいいと思っている。あそこのケーキ屋でも、いつもショートケーキを買う。クリームが悪どくて美味しいのだ。甘すぎて脳みそが振動する。
身体が喜んでいるのが分かる。
彼女とはきっと、幼少期から食べてきたものが違うのだろうと思う。
だから僕はいつも断る。
同盟なんか組んでやるもんか。
味噌ラーメンにはバターが必須だし。
彼女と出会ったのは3年前で、バイト先の定食屋だった。
人との関わりをなるべく避けたいばかりに、町の隅に隠れた小さな定食屋でアルバイトをすることにした。
なんせ、人なんて1日に数えるほどしか来ないのだ。
夫婦で経営しているそのお店は、昔は働き人で賑わっていたそうなのだが、
もうあと何年かで閉めることになるからと、人が来なくても店を開けている。
僕はその夫婦がだいすきだった。
温かくて優しくて、経営は厳しいだろうに、いつもバイト終わりに夜ご飯のおかずを持たせてくれた。
そこで週に1度、毎度蕎麦を注文する客が彼女だった。
正直、いけてないと思った。
なぜなら、この店の定食は他のお店と比べて差分なく美味しいけれど、蕎麦だけは食べられないのだ。
一度まかないで食べたが、粉が口に残る、蕎麦とは決して言えないものだった。
蕎麦屋なんてこの町には他にあるのに。
僕の知っているかぎりでも3軒はあったはずだ。蕎麦が食べたいならそこへ行けばいいのにと毎回思っていた。
けれど彼女は、毎回そばを注文して毎回同じ雑誌を見ながら完食して帰っていく。
あるとき、どうしても気になって、夫婦が厨房で作業をしている隙に彼女に聞いた。
その蕎麦は美味しいのか、と。どうして蕎麦にこだわるのか、と。
そうすると彼女は、つゆが、とつぶやき、
つゆがたまらなくおいしい、と言った。それだけだ、と。
僕はそのとき、息を止めていたと思う。
つゆを作っていたのは夫婦ではなく、僕だったからだ。
この店に来て蕎麦を注文するのは彼女だけだったし、夫婦にこだわりはなかったのだと思う。
蕎麦のつゆは、スーパーにも売っているめんつゆと、水を割って出せばいいと言われていたので、最初はその通りにしていた。
けれど勤めてしばらくしてから、子どもの頃に祖父から教わったレシピを思い出した。
蕎麦のめんつゆに少しだけバターを溶かして入れるレシピ。祖父はこれがだいすきで、いつも食べていたし、僕も好んで食べていた。
だから、店でも試しに出していた。美味しくないのなら頼まなければいいと思っていた。
僕は彼女の言葉に、そうですか、としか言わなかった。
というか、言えなかったのだ。
店の店主でもない僕が、レシピを変えて出しているなんて言えるわけがなかった。
彼女はその日からも決まって週に一回、店に来て蕎麦を食べていた。
僕も決まって、めんつゆにバターを少しだけ溶かして入れて出した。
今は彼女と、一緒に暮らしている。
たまに、家で蕎麦を食べる。
そのとき僕は決まって、気づかれないようにめんつゆにバターを溶かして彼女に出す。
彼女はおいしいと、蕎麦がだいすきだ、といいながら食べる。
バター嫌いな彼女。食革命を起こしたい彼女。
彼女は知らぬ間にその戦いに負けていて、僕はそんな彼女がたまらなく愛おしくて、今日もバターを溶かす。
知られないように。
この世は知らなくていいことばかりだ。
(fiction)