
ラノベを読みながら、「心を持つ者が悩むこと」を考えてみる
前にも書いたかもですが。
ぼくは、好きな小説を、メモを書き加えながら何回も読むのが好きな人でして。
年明けからは、「ノーゲーム・ノーライフ」という、ゲームバトル&ファンタジーなライトノベルをまとめ読みしてました。
今日読んだ第9巻は、今回で4回目、前回から3年のインターバルをはさんでたんですが。
内容的に全く覚えてなくて。
やたらと感動して、大泣きしながら読んでました。
ぼくが何に感動しているか?というと。
確かに、ゲームかつファンタジーという、軽いタッチの舞台で。
コレってどういう意味?と推理をさせられながら、予想しない方向にストーリーが進むという、エンターテインメントの部分がまずよくできてると思うのですが。
主人公たちの吐くセリフや、その1冊あるいは全巻を通して伝わる作者からのメッセージが。
物事の真理や、人生の価値観なんかをテーマにしているので。
共感させられる、あるいは自分ならばどう思うのだろう?と考えが深まっていくのが、とても面白くて充実感がある・・のが好きなのです。
友達との会話もそうですが。
真理や価値観的なメッセージというのは、話し手・聞き手の体験や、フィクションであれ具体的なストーリーを伴ってこそ、よく分かることができる・・と思うので。
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という流れで、今回読んだ「ノーゲーム・ノーライフ」の第9巻で、ぼくが共感したシーンを書いていこうと思うのですが。
物語りの前半で、
「心を持つ者が悩むことなんて、いつだって単純で、くだらないことで・・」
と振って、読者に考えさせておいて。
クライマックスのシーンで、
「切実で、尊い、くだらないことだ・・後悔か。罪悪感か。無念か・・
(あえてその全てを、一言で要約したならきっと)
・・ただ、もう一度会いたかっただけとか・・」
という続きのセリフを、主人公に言わせる。
このセリフはね、ぼくはホントに、そうだね~って思うのです。
この「そうだね」って思う程度は、その人の体験とか想いによって全然違ってくるものなんでしょうが。
ぼくの場合は、父親を急に亡くし、妹を看取った経験と重なって。
普段はアタマの隅っこで小さくなってたものが、100%に還元されて体の中心に居座ったうえで、ズドンと的を射抜かれたたような・・そんな感覚に陥ります。
別に思い出したからといって、今また、後悔のどん底に沈むようなことはなく。
ただフラットに「ホント、そうなんだよね~」と、その人生の捉え方的なものを素直に肯定するだけですが・・。
その後の会話のシーンで、過去の自分の行為を悔いている(機械人間的な)ゲーム相手が
「自分たちの心に意味は在ったのか?自分たちは赦されるのか?」
と問うと。
主人公の兄妹は、まず
「その問いは・・おまえらが答えるものだろ・・」
と突き放す。
そして、
「意味があったか?・・おまえらが意味を見出すかどうかだ」
「許されるか?・・あなたたちが、自分、許せるかどうか」
だと教えてあげて。
「今度こそは、次こそは。・・勝ってみせる。そう思える世界だ」
と、彼らに前を向かせる。
この言葉は、本当にもう、ぼくが常日頃から大事だと思っている言葉で。
まさしく今のぼくの信条が、そのまんま、文字になっていたので。
びっくりして、超納得して、自分の確信をさらに確信して。
ボロ泣きしながら読んでました。
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かように、だから、本を読むのは、本と対話するのは面白くって。
だから、友達としゃべるのは面白いんだよね~と思います。
きっと、歳を重ねるにつれて、自分の体験の質と量も積み重なってきているので。
その体験と照らしながら、言葉の意味をより深く理解できるようになっていってるんだろうなあ・・とも思います。
正直言うと、10年前までは「ライトノベル」って馬鹿にしてましたが。
やっぱ、宮本輝とか宮部みゆきを読むべきでしょ!って思ってましたが。
今のぼくは、面白ければ、どっちでもいいかなと。
これからも、自分の直感に任せて、人とのご縁やおススメに任せて本と出合い、本との楽しい時間を過ごしていこうと思います。
<見出し画像につき>
「ノーゲーム・ノーライフ」第9巻の表紙です。
ぼく的には、「化物語」シリーズ、「青春ブタ野郎」シリーズ、「冴えないヒロインの育て方」とともに、何度も繰り返し読んでる作品です。