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最近感じたことのメモ書きのようなもの 3編
3編は関連がありませんので、どちらから読んでも大丈夫です。
ゆとりのなさ
朝7時30分の東京のとある駅にて。
地下深くのホームから改札口に続く長いエスカレーターに乗っていた僕。
エスカレーターには、片側に立ち止まる人、もう片側は歩いて登る人という、誰が決めたかわからない公然のルールのようなものが存在する。
最近では、歩き通行はNGになっているが、依然として守られている感じはしない。
スーツを着たおじさんが、次々と僕を抜かしてゆく。
駅を出た。
大きな道の横断歩道の歩行者用信号が点滅している。
それでも渡りだす人は後を絶たない。
僕の横を通り過ぎる駆け足のヒールのコツコツ音を響かせるキレイな女性。
みんな、そんなに早く会社に行きたいの?
朝から小走りしないといけないほど、時間に余裕がないの?
そんなに数分が惜しいの?
都会の人にはゆとりがないということを誰かが言っていた。
都会には何でも揃っているのに、ゆとりが置き去りにされてきた。
そして、僕は会社のエントランスに着く。
エレベーターの扉が閉まりそうだ!
そこへ駆け込む。
……あっ!
エレベーターにある鏡に映ったのは、都会に染まった僕であった。
この矛盾が、心に染み込んだ冬のとある日。
見知らぬ誰かへ そしてやさしさを
ある日の池袋。
手押し車を押しているおばあちゃんが、片側二車線道路の横断歩道を渡っていた。
横断歩道の半分を過ぎたあたりで、歩行者用信号が点滅を始める。
「渡り切れるのか?」
こちらへ向かってくるおばあちゃんが気になり、歩道にいた僕は歩みを止めた。
おばあちゃんは、すこしスピードを上げて、渡り切ろうとする。
無情にも渡り切る前に、歩行者用信号が赤信号となってしまった。
自動車側の信号が青になり、自動車がそろりと横断歩道ギリギリまで近づく。
今さら立ち止まれないから、おばあちゃんも一生懸命歩く。
しかし、運転手は、おばあちゃんがちゃんと渡り切るのを見守るように、車は通り抜けなかった。
おばあちゃんは、僕の横を通るとき少し息を切らしているように見えた。
会釈をされたので、こちらも反射的に会釈をした。
無事で何よりだ。
歩行者用信号が青く光る時間は、誰が決めたのだろう?
おそらく、想定される標準の速度で歩いたときに渡り切れる時間が、青く光る時間なのだろう。
しかし、標準とされる歩く速度ってなんだ?
それに当てはまらない人はどうなるのだ?
こんなありふれたどこにでもある信号でさえ、完璧なシステムではない。
今回、ルールから外れても、運転手は時間的ゆとりがない中、安全意識や善意のおかげでおばあちゃんは渡りきれた。
決まりごとやルールには、必ず取りこぼされてしまう人々がいる。
そんな人々を救うのもまた人である。
人にやさしく
このたった6文字のもつ意味は、とてつもなく大きい。
将来の世代にツケを残さない!って決まり文句
この決まり文句。
政治家が街頭演説で言うのを聞く。
増税するときのお願いの仕方なのだろう。
この決まり文句。
僕が将来の世代だったときから、言われてた。
そんな僕は、今や現役世代になってしまった。
この決まり文句。
果たして、いつの子ども達のためを想っての言葉なのか?
今年生まれた子ども達が成人しても、政治家は同じことを言っているのではないか?
そんな不安がよぎる。
この決まり文句
永遠にやってこない将来の世代。
この決まり文句
アキレスと亀の話が思い出された。
亀に永遠に追いつけないアキレス。
哲学者ゼノンが提示したパラドックスだ。
アキレスが"僕たち"で、亀が"将来の世代"。
アキレスと亀における時間軸は無限だ。
しかし、僕たちの命は無限ではない。
パラドックスのアキレスだって永遠に亀を追うのは嫌だろう。
パラドックスであれば、いろいろな人が解決しようと論理を練り上げてきた。
しかし僕たちはどうだろう?
改善されているのか?
「景気は良くなっている」
そんなことも聞く。
一袋にたくさんお菓子の入ってた僕の子供の時代の方が景気が良かったんじゃないかと思わざるを得ない。
(今は、同じお菓子でも値段は高いし、量も少ない。自動販売機の飲み物なんて特にひどいありさまだよね。)
僕たちは、世代交代が続いているのに、亀の姿が一向見えず、ツケを払わされ続けているのはなぜだろう。
現に子どもの人数は毎年減っているではないか。
政治家の先生方へ
この決まり文句、そろそろ言うのが恥ずかしくなってはくれないですか?
アキレスになってしまった一人として言わせていただきます。