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なぜ人は写真を撮るのかという疑問に対する一つの意見

以下の記事はQuoraの質問「なぜ人は写真を撮るのでしょう?」に対して私が書いたもの。回答は写真という結果を得る必要性というよりは、写真撮影という行為そのものについてのものになる。


私も趣味で写真を撮るのですが、この質問を見たときには改めて考えてしまいました。
うーむ。これは難しい・・・

何万年も前に描かれた洞窟の壁画が残っていますので、人間は元々、物質として視覚的な何かを作る性質を持っているのだろうなと思います。

そして仰る「見る」という行為ですが、これは「誰が」という謎が常に付きまといます。
それは勿論自分な訳ですが、では自分とは一体、何なのでしょう?

人は目が得ている信号をそのまま見ている訳では無い事が知られています。それは頭の中で一旦処理されて、その処理された後の像が意識に上り、それで人は初めて「見た」という感覚を得ます。
つまり、物を見るというのは物そのものでは無くて脳が作り出した脳の状態を見ている、と言えます。
その為、実際はそれが有るのにそのそれが見えていなかったり、逆に単なる偶然のパターンから何かを見たりという事が起きます。

だとすると、その像を作っているのは誰なんでしょう? それは何でそのような像を作っているのでしょう? そして、像は何なのでしょう?
このぼんやりとした、しかし多くを包含する謎の手がかりは、意識的に自分を観察することによってしか得られません。自分自身の行う事を改めて自分で見つめる事によってです。
それはあるいは写真によって得られるかもしれません。そして、それが写真を撮り見る理由なのかもしれません。

写真家の西浦和彦氏はXで次のようにつぶやいていました。

いかにして自分の中にある無意識から、何かを引き出すか。それが文章だったり音楽だったり写真だったりなんでもいい。自分の思考外から出てくるものを自分眺めて楽しむのである。

西浦和彦 (@hikoichi0212) on X

いかにして自分の中にある無意識から、何かを引き出すか。それが文章だったり音楽だったり写真だったりなんでもいい。自分の思考外から出てくるものを自分眺めて楽しむのである。 2024.9.1朝に考えたこと。

https://x.com/hikoichi0212/status/1830008270100316320

また、このあいだニコンサロンで見て来た展示にはステートメントが付いていたのですが、それにはこのような事が書かれていました。一部引用します。

寝ている時以外にも不意に視界に入る「夢のようなイメージ」もまた、無意識の一部なのだろうか。
不穏な場面や不気味な形状、不可思議な存在に、無音の瞬間。
私の内なる無意識は、何かしらの「象徴」としてこのようなイメージを見せ、語りかけているようだ。
無意識が伝えたいことは何だろう。

夢か現か。間(はざま)に揺らぐ認識。
しかしカメラを通して記録されたイメージは、写真という物体、あるいはデータという細かな粒子の集まりとなって、現実として他者と共有することが出来る。

その写真を撮ったクガハルミさんが在廊していたのでちょっとお話を伺ったのですが、「無意識は視覚情報を取捨選択している。写真を大量に撮り並べてみると、無意識の中に流れているストーリーを写真を通して知ることが出来る」というような事を教えてくださいました。


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