細田守『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』(2000)と他デジモン映画2作を観返した
細田守を観返そうツアー第3弾として2000年公開のアニメ映画『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』を、第4弾として1999年公開のアニメ映画『デジモンアドベンチャー』を観返しました。細田守作品ではないですが、ついでにウォーゲームの続編である『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』も観ました(これだけ初見)。
以下、それら3つの感想を観た順番に貼っていきます。
・デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム
人生で2度目の視聴。数年前にはじめて観たときよりもずっと面白かった!! ……これひょっとして傑作では??
評価が上がったいちばんの理由は単純に、自分が細田守(や山下高明, 森久司ら)の他の作品も新しく観たことで、さらにその演出の魅力の虜になったからだ。「自分は細田守が大好きだと改めて確信したので、細田守が作ったアニメを前よりもっと楽しめるようになった」というトートロジーめいた理由だが、往々にしてそんなもんだろう。
もう全カット良すぎる。同ポジション振り最高。
今回見返して特にテンションあがったのは、太一宅のリビングで麦茶を飲む光子郎くんの姿勢が完全に『おおかみこども』の草平くんのそれだったこと。
片手(片腕)だけ机の上に置いてコップを掴んで、もう片方はズボンのポッケに入れて椅子に浅く腰掛ける体勢を子供がとるのがヘキなんですね。いいですね。
『ONE PIECE オマツリ男爵と秘密の島』でも思ったけど、細田守はコメディを基調としたアニメ作りがまじで上手い。ラストバトルで核ミサイルの時間制限と並行させて中学入試の試験時間やママのパンケーキレンチン時間を描き、タイムアップと同時にケーキが焼き上がる(「あらぁ失敗しちゃった」)みたいな細かなギャグ要素を挙げればキリがない。
ただし今作にコメディの基調を生んでいる最大の要素は「世界の危機のため子供たちは必死にデジモン世界をのぞいて戦っているが、"現実"世界の大人たちが傍から見るぶんにはパソコンゲーム遊びをしているようにしかみえない」ことを何度も何度も露骨に表現する描写だろう。
あとでサマウォも見返してちゃんと比較したいけど、これはサマーウォーズとの共通点であり、まただからこそ両作品の違いが如実に反映されているところでもある。
サマーウォーズではOZの異変・ラブマシーンの脅威に立ち向かうのは主人公ら子供(若者)だけでなく、大家族の大人たちでもある。より正確にいえば「男たち」であって、すなわち『ウォーゲーム』では「子供 / 大人」という二項対立だったのが『サマーウォーズ』では「男 / 女」へと変更されている。(リベラル層から酷評されるのも頷ける……。)
(言い添えておくと、『ウォーゲーム』でも敵とデジモン空間で戦うのは主に4人の男子たちばかりであるし、『サマーウォーズ』でも主人公たちの戦いを中盤でもっとも邪魔するのはオバさんがたではなく例のケーサツのニーちゃんなので、そう単純に対比できるわけでもない。)
主人公勢だけでなく、インターネットを通してつながる世界中の人々──的な描写で描かれる人たちの属性も、ウォーゲームでは基本子供ばかりだが、サマーウォーズでは大人も混じっていた……?ここは見返して確認してみよう。
(加えていえば、そうした「世界中の人々の想い」がサマウォでは直接的に元気玉展開で善なる力になるが、ウォーゲームではむしろ主人公側のデジモン通信環境を圧迫する"負荷"として現れて、その「はた迷惑なもの」を敵に押し付ける(メール転送する)かたちで勝利を収めた……というのが大きな違いであることはすでにあちこちで論じられ尽くしているだろう。「子供たちの尊い気持ち」もインターネットにおいては通信量を圧迫するデータ列でしかないという、まさに「デジタル」でアイロニカルな倫理がまた面白い)
ともかく、『ウォーゲーム』では、インターネット/通信技術という現代社会の基盤を作っている(ex. NTT) インフラでありながら、周りの身近な大人たちはまだまだ関心を示そうとはしない "それ" への子供の憧れと独占欲を巧みに利用している。「大人たちが使っているなんか凄そうなものだから憧れる」という気持ちと「これの本当の価値を理解できるのは俺たち子供だけなんだ」という気持ち。その両者の交差点として「デジモン」という概念が存在している。これは本作の特徴というより『デジモン』シリーズそのものの根底にあるスタンスだと思うが、それをひとつのオリジナル劇場版でここまで鮮やかに描いてみせたのは素晴らしいというほかない。
そして、デジモンを現実世界の側からは徹底して「リアル」に描いてきたこの映画のクライマックスでそのルールが破棄されて、太一とヤマトがデジモン世界へと「姿を消す」という展開も王道だがグッとくる。島根の床屋のお婆さんが目をかっぴらいてるのが最高。(あと太一たちの輪郭線が無くなって作画タッチが変わるのもすばらしい)
正しく、子供による子供のための劇場版映画だった。としてみれば、『サマーウォーズ』ともっとも大きく違うのは『"ぼくらの"ウォーゲーム』という「ぼくらの」の部分なのかもしれない。サマウォも『ぼくらのサマーウォーズ』だったら全然ちがう映画になっていただろう。
「子供(小学生)」のための映画、であることを念頭に置くと、単なるコメディ要素にみえていた、城戸丈クンの中学入試の描写にもグッとくるものがある…… 一緒に遊んでいる友達のひとりは、小学生にして既に大人への階段を登っている(登らされている)……切ない……
他にも、ヒロインの描き方なども比較検討したい。全世界の想いを受け止めて戦いの主役となる夏希センパイと、いっさい戦いには参加せずに太一からのメールを待っているだけ(にも関わらず圧倒的な存在感)の空・・・。
なにが言いたいかというと、この、飛行機雲が走る青空バックの窓際で空が佇むショットがマジで最高だということ。最初に観たときは正直これの印象しかなかった。それほどに「画」として強烈だった。
冒頭の団地前を歩くカット↑も良いし……(コの字形の建物ロケーション空間設計ほんと細田守好きだな……ウテナでも時かけでも竜そばでもサマウォでも見た)
あとは、アニメにおける「田舎」表象の文脈でもかなり重要な作品だとは思う。要するに「インターネットがない」場所としての田舎。これがデジモンというファンタジー要素とうまく絡み合っている。
こうした田舎表象は後継作『サマーウォーズ』においてはOZが普及している設定によってはじめから破棄されていた。あの映画で描かれていたのは実は田舎的ではない田舎、インターネットが普及して "都市化" が進んだ現代的な田舎であるとも捉えられる。
あと、オメガモンはたしかにカッコいいけど、それよりも敵デジモン(ディアボロモンという名は作中で一切使われない)の「顔」が不気味なんだけど人間味もあって、最後にデータ転送で処理落ちして固まりながら、口をあんぐりあけて、迫ってくるオメガモンに対峙しているさまが凄く良かった。いい「役者」だった。
この映画でも、『おジャ魔女どれみ どっか〜ん!』でも、『ONE PIECE オマツリ男爵と秘密の島』でも『ウテナ』でも思ったけど、やっぱり細田守は既存のシリーズコンテンツに関わったほうが真価を発揮する気がする。どうあがいてもやりたい放題になってしまうからこそ、オリジナル作品に閉じこもってその強すぎる作家性を粛々と表現するのではなく、既存のコンテンツに迷惑をかけることを承知のうえで好き勝手やった結果として大傑作が生まれる。コンテンツのファンからしたらたまったものじゃないかもしれないが、わたしは『BLEACH』の劇場版アニメを細田守に作ってもらいたいので……。
・デジモンアドベンチャー
ボタモン(アグモン)とヒカリの深夜徘徊を永遠に観ていたい。アグモンがゆっくり首を回して振り向くの良すぎる。
ボレロよりヒカリの笛ずるいでしょあれ。
この子が『ウォーゲーム』では友達の誕生日付き合いに苦心する小学生になってしまうのかと思うとなかなか……
ボタモンが孵る前のタマゴ状態での屋内ゴロゴロ追いかけっこがとても良い。コミカルな追いかけっこが大好きな細田守。
団地・マンションの舞台構成も大好きな細田守。
東映の圧力で怪獣映画になる前の、もっと『禁じられた遊び』や『ミツバチのささやき』感を前面に出した映画が観たかったなぁ〜〜
・デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲
『ぼくらのウォーゲーム』の続編。映画『デジモンアドベンチャー』無印と合わせて、これでボレロ三部作といったところだろうか。
デジモンのTVシリーズをいっさい観ていないので、前作から3年経って、太一たちがいつの間にか中学生になり、物語の主役は新世代の小学生たち(キャラデザめっちゃ似てる)に譲っていたのに驚いた。『デジモンアドベンチャー 02』の02ってそういうことか。『イナズマイレブンGO』みたいな感じだと理解しておく。
キャラの作画に山下高明, 森久司の両名が関わっていないのがにわかには信じられないほど前作のタッチを踏襲している。絵コンテも、細田守的な引き固定ショットでほとんどを構成しており、そりゃあ大好きだけど、さすがにここまでくると下品ではとも思ってしまう。表面上は真似られても、細田守のコメディ調のテンポ感などはトレースできていない(あるいは意図的にしていないか。)
『ぼくらのウォーゲーム』とはスタッフやメインキャラ(の世代)も異なるだけでなく、さまざまな点で対照的になっている。まず、『ウォーゲーム』の特徴であった「現実世界にデジモンが実体化しない」設定はなくなって、普通に「ペット」としてデジモンが日常に溶け込んでいるさまが描かれる。また、『ウォーゲーム』終盤では太一とヤマトがデジタルワールドへと入り込んだが、今作は「ディアボロモンの逆襲」ということで逆にディアボロモン(のコピーであるちっちゃいデジモン)がパソコンやケータイのディスプレイを通して現実世界へと大量に侵食してくる。その流れで、ラストバトルの舞台もデジタルワールドから現実世界・お台場へと映っている。
こうした前作からの変化は、単に「逆襲」というコンセプトの反映だけではなく、インターネット・携帯電話が急速に普及しつつある時代の趨勢も反映しているのではないか。(2000年の前作から1年しか経っていないとはいえ……。) パソコンやケータイの画面を覗き込んで時間を浪費するのは子供だけ、的な世界観だった前作から打って変わって、今作では道行く大人たちもみなケータイやノートパソコンの画面を見つめている。ディアボロモンを倒す原動力がお台場に集まった子供たちのケータイ画面の光であるのも象徴的だ。この意味で、前作の「島根にパソコンなんてあるわけないじゃん!」に並ぶくらい、今作での「電車ンなかでケータイ使うなー!」も名セリフだと思う。
最終的に怪獣映画になるのは『ぼくらのウォーゲーム』よりむしろ映画『デジモンアドベンチャー』に接近というか回帰している。……じぶんはマジで怪獣バトルには露ほども興味が沸かないことがわかった。(というかバトル描写全般に興味がないだけか。でも、スケールのでっかい戦いはさらに輪をかけて興味が薄れるのだと思う。『サマーウォーズ』の花札バトル展開がいかに自分的にとってありがたいチョイスだったのか身に染みるぜ……)
戦闘描写はなにも覚えてないけど、東京の街を頑張って走って移動する「街歩き」ならぬ「街走り」映画であるのは結構好きだ。地理的な空間の広がりがないインターネット空間ときれいに差別化できているし、それは前作で太一が自宅から一歩も出ずに世界を救ったのともきれいに対照的になっている。渋谷スクランブル交差点のでっかいモニターに、太一たちオメガモンの戦いが映し出されるのもいい。
あと、太刀川ミミさんの画が良すぎた。帰国してパソコン室に入ってきて光子郎に話しかけるミミさん素敵すぎる……。成長した空さんが田舎の駅で佇むカット、それから太一とヤマトの前に現れるロングショットも物凄くいいけど、『ウォーゲーム』の小学生の頃のツンツンした孤高の雰囲気ではなく、太一と露骨に良い仲であるような角のとれた雰囲気を出していたのはやや残念。(てか『ウォーゲーム』では太一とケンカしてたからツンツンしてただけ説が有力か。TVアニメのほうをちゃんと追ったほうがよい。)
このあとで『サマーウォーズ』を観返しました。その感想メモは先日すでに投稿しています。
ほかの細田守観返しツアーnoteはこちら。
次は『バケモノの子』と『未来のミライ』ですね……! とくに『未来のミライ』は劇場で1回しか観ていないので、今観たらどう感じるのか予想がつかず楽しみです。
そうしたら、ようやく最新作『竜とそばかすの姫』に追いつけますね。公開初日に1回目を、そして聖地巡礼のために足を運んだ高知県のシネマで2回目を観ましたが、Prime Videoでの配信も始まったので、また観返したいです。そうしたら今度は好きになれるかも。。