映画『365日のシンプルライフ』で学ぶ「幸福とトレッドミル効果」
この記事では,みなさんと映画をベースに社会科学の概念を学んでいきます.ぜひ,映画を見てこのノートを読み,学術的背景に目を凝らしながら楽しんでください.
今回の映画は,「効用」編で取り上げた『365日のシンプルライフ』です.
モノに囲まれた生活に疲れる
映画『365日のシンプルライフ』では,青年ペトリが部屋の全てのモノを倉庫に押し込み,1日1個のモノを引き出す生活をする姿を描くドキュメンタリー調の映画です.
彼がなぜそんな生活をし始めたのかというと,モノに溢れた生活に嫌気がさしたからです.「人生に本当に必要なモノ」を明らかにするために,彼は文字通り裸一貫からスタートしたわけです.
しかし,冷静に考えれば少し不思議ではないでしょうか.映画の冒頭には,彼が全てのモノを倉庫に詰める前の部屋が見えますが,ありとあらゆるモノが揃っています.しかし,彼はそこに幸福を感じることはありませんでした.
前回のnoteでは,効用(嬉しさの指標)の特徴からその理由を説明しました.特に,限界効用逓減則という観点から,モノが増えても効用が増えない,という話をしました.
今回は「幸福度研究」の観点から,この現象を見てみましょう.
「ほしいモノが手に入る」と起こること
みなさんもペトリのように,欲しいものを手にした時には幸せをかみしめることができるでしょう.たとえば,洗濯機を買い替えて,乾燥機付きのドラム式洗濯機に更新したとしましょう.生活水準は格段に向上し,これまでの生活に彩りが出て,少し貯金をした甲斐があったなぁ,としみじみ感じることでしょう.
しかし,しばらくするとその幸せも薄れてきます.乾燥機付きは確かに楽ですが,それが当たり前になってきます.すると,他の部分が気になってきます.掃除機も古くなったからルンバでも買おうか,とか最近花粉が気になるから空気清浄機を買おうか.とあれこれ次の一手が気になってきます.
ここに,人の幸福に対する特徴が表れています.あるものを欲しいと思ったときには,叶えたい生活=希望水準があるからこそ,欲しいと思ったはずです.希望水準と現在の生活水準とのギャップが気になるはずです.
ほしいモノを手に入れると,その幸せを少しの間享受することができます.しかし,その幸福にも人は順応してしまいます.順応した結果,新たな希望水準が現れ,現状と希望のギャップに再度苦しみはじめることになります.ここで問題なのは,生活水準の向上と同時に,希望水準も上昇してしまうことです.
このような状況を,幸福度研究ではトレッドミル効果と呼びます.トレッドミルとは,いわゆるルームランナーを指します.ルームランナーは走っても走っても,物理的には前に進みません.常に上昇し続ける生活水準と希望水準の関係性をよく表しています.
豊かで不幸な国?
このトレッドミル効果は,ペトリにも生じていたのではないか,と考えることができます.それだけでなく,彼が住むフィンランドを含む先進国に共通した効果かもしれません.
世界各国の1人あたりのGDPと幸福度の関係を見てみましょう( Ortiz-Ospina (2013),インタラクティブな図はこちらのサイトからどうぞ).
横軸に一人当たりのGDP,縦軸には10段階で回答した生活満足度(高いほど「生活に満足している」,幸福度の代理指標)を置いています.このグラフの形に注目すると,非常に面白いことがわかります.
まず,豊かな国ほど生活に満足しています.左の方に一人当たりのGDPが少ない国(貧しい国),右のほうに一人当たりのGDPが多い国(豊かな国)が並びます.大まかにいって,左から右へ行くほど生活に満足している(グラフ上で,左下から右上へと流れている)ことがわかります.
しかし,豊かな国では,満足度がGDPに与える効果は限定的です.20,000ドルから先の部分に注目すると,ほぼ横ばいになっていることがわかります.つまり,豊かさが一定のレベルを超えると,より豊かになっても幸福度の向上にはつながりにくい,ということです.このような状況を発見した経済学者のイースターリンにちなんでイースターリンパラドクスと呼びます.
そして,イースターリンパラドクスの説明として挙げられるメカニズムが,トレッドミル効果なのです.最低限の生活水準を超えると,あとはランニングマシーンを走るがごとく,欲望が次から次へと沸いて満たされなくなり,幸福度が一定の水準で頭打ちになってしまうのです.
日本における幸福度とGDP
日本ではどうでしょうか? GDPとその成長は幸福度につながっているのでしょうか.実際のデータを見てみましょう.
図1:生活に満足していると回答した人の割合(国民生活に関する世論調査)と名目GDP(令和元年度年次経済財政報告)
図1では,生活に満足していると回答した人の割合と名目GDPの関係を散布図の形で示しています.1つの点が一つの年度でのそれぞれの値を表しています.
この図は先ほど確認した傾向を読み取ることができます.まず,この散布図は右肩上がりです.なので,GDPが増えると確かに幸福度は上がるようです(相関係数は0.49).しかし,目盛り50000付近に縦長に点が集まっていることがわかります.これは,豊かであるにも関わらず,満足度が多かったり少なかったりする,という状況を表しています(年度でいえば1990年以降にあたります,相関係数は0.14).よって,豊かさが一定の水準になると幸福度とGDPの関連がなくなるような傾向が見て取れます.
後半の部分をもう少しみてみましょう.実質GDP成長率と生活に満足した人の割合を図2に示しました.
図2:生活に満足していると回答した人の割合(国民生活に関する世論調査)と実質GDP成長率(令和元年度年次経済財政報告)
横軸がGDP成長率に変わりました.グラフの形はどうでしょうか.全体的には右肩下がりの関係に見えます(相関係数は-0.19).これは,高度経済成長期(成長率10%前後)に人々は生活に満足していなかったこと(グラフ右下の部分)が影響しているようです.このような現象は不幸な成長パラドクスと呼ばれています(Lora and Chaperro 2008).経済成長をしているにも関わらず,人々は不幸である,という状況を指します.
しかし,急激な経済成長を遂げた部分を除けば,経済成長が0~5%の部分にすべての点が収まっています.経済成長と幸福度の関係は強く表れることはありません.トレッドミル効果が生じている可能性をここでも見ることができます.
幸福度から見える世界と自分自身
これまでの話は,みなさんにとってどれほどリアリティをもって理解できたでしょうか.身近な話から世界レベルの話まで,トレッドミル効果を通じて概観しました.
映画同様,幸福度研究は自分自身の生活を見直す良い機会を提供してくれます.自分にとっての幸せと足元にあるトレッドミルを再度よく省みてはいかがでしょうか.
参考文献
Esteban Ortiz-Ospina (2013) - "Happiness and Life Satisfaction". Published online at OurWorldInData.org. Retrieved from: 'https://ourworldindata.org/happiness-and-life-satisfaction' [Online Resource]
Lora, E. and J. C. Chaparro, 2008, "The conflictive relationship between satisfaction and income, " Working Paper, No. 642, Inter-American Development Bank Research Department, Washington, DC, pp,2-52.
今回の話は以下のテキストの一部を参照しています.より深く学びたい場合にはぜひ読んでみてください.