6浪して大学へ。そして、、

■さえない小中学時代

「中国地方って中国の領土ですよね?」

 これは中学生のとき社会の先生に質問したことだ。先生は答えた。
「そんなわけあるか!ふざけんな」
 なぜ怒られたのかわからなかった。
 生まれつきぜんそくを患い、小学生のころから学校を休みがちだった。「理科」や「数学」という言葉を見るだけで吐きけがするほど嫌いで、日本地図もろくにわからず、アルファベットを正確に書けるようになったのも中学2年の5月。

 自分を振り返って思い出すことは毎日毎日テレビゲームをしていたことだ。本当にその記憶しかなく今考えると恐ろしい。学校を休んでゲームしていたこともあったし、定期テスト期間中なんて普通はみんな一生懸命勉強して焦るのに、「授業もなくて学校が早く終わってラッキー♪」という感じだった。

 大人になるのが嫌だった。だから自分の思い通りに動くゲームに逃げていたのかもしれない。そんな私が中学3年生になり、初めて進路について考えた。

どの高校がどのくらいのレベルで、どのくらい勉強しなければいけないかなんてわからなかったため、あまり勉強しなくて済むような卒業単位の少ない、総合学科高校という選択肢をとった。


自分で好きな授業を取れて、さらに料理や音楽、コミュニケーションなど、普通科ではあまりないようなことが学べるらしい。机に向かってやる勉強が少なくなるならと、中学3年の12月くらいから高校受験の勉強を嫌々ながらやり始めた。

 勉強といったって普通の中学生が日常にやっている時間や質よりもあきらかに劣るものだったが、自分なりには精一杯やったつもりだ。そしてなんとかその高校に合格できた(あとでわかったことだが当時の入学者の中で成績がビリから3番目であった)。

そしてそのあと私の人生が大きく変わった。



■学びの原点

 忘れもしない人生の岐路、それは高校一年生のころに受けた予備校の授業でのことだった。中学校を卒業するまでは毎日毎日テレビゲームをして過ごした。学校の授業もつまらなかったし、これといって打ち込むこともなかった。

それでもなんとか高校受験を乗り越え、神奈川県藤沢市の単位制総合学科高校へ入学。小田急線沿いで、周りには何もないところだった。


当時のこの高校は地域からの評判が悪く、近くのコンビニからここの高校生は利用禁止という勧告がなされたこともある。自分は悪いことをしていないのに制服を着て歩いているだけで地域の人の目が気になってしまう。

せっかく高校に合格したものの、ほぼビリの成績で入った私はどこかで少し焦りを感じていた。そう思っていた折、予備校の無料体験の案内がきて行ってみることにした。そこで、


 人生が変わった!

 体験授業初日、英語の先生が放った一言は強烈だった。
「みなさんが高校生活で成し遂げたいこと、将来やってみたいことはなんですか?ぜひ目標を持ってください。人生が変わります!」

 そうか!今まで自分がバカで何の取り柄もなくだらだら過ごしてきた原因は、「目標がなかった」からだったのだ。



この一言で私はこの先生の虜になり、気がついたら授業にも熱中していた。おそらく今までの人生の中でこんなに何かに熱中したことはないくらいに。わかりやすい説明、適度なスピード感、あふれるユーモア。

「皆さん!takeは持っtakeです!」
「ninthにeはいらninth!」
「さあ、この問題スーパーダッシュで解きましょう!」
「え?この問題間違えたんですか?さよならバイバイ!うそです。僕も昨日解いて間違えました笑」

 今まで学校で受けてきた授業とは比べ物にならないほどの高い質とテンションに圧倒された。堅苦しいイメージだった勉強というものがとても身近なものに感じることができた。何より、それまで教わってきた先生とこの予備校の先生の決定的な違いは、

「情熱」「本気」そして「楽しそう」

 仕事に対して、生徒に対して、そして自分自身に対して、この先生はどんなことにも情熱的かつ本気になれる人なのだろうと感じた。いや、実際そうだったはずだ。何も考えていない私のような人間の心をこんなにも簡単に動かしてしまうのだから。みんながこんな先生に教わることができればどれだけ多くの人が学問に目覚めるだろうか。


私は、いままで嫌いだった勉強が一瞬のうちに「好き」に変わった。すごく不思議な感覚だった。

 その後は金銭的な理由で予備校に通うことができず、この先生ともそれっきりになってしまったが、この日の体験がなかったら私は今ごろ公園にブルーシートで暮らしていたかもしれない。

「人間は一瞬にして変わることができる」ということを自分の一番嫌いだった勉強というものを通じて教えてくれた体験授業だった。



■理想と現実とのギャップ

 目標を持てといわれてもどう探せばいいのだろう。何かに全力でがんばったことも、情熱的になったことも、本気になったこともない、そんな人間に何ができるのだろう。んー、あれでもない、これでもない。やりたいことなんてない。でもせっかく心に火がついたのだからなにかやりたい。あ!そうだ!

「先生になろう!」

 自分の人生を変えたくれた存在になる!これなら本気になれると思った。まず大学へ行こう。よし!これで方向性が決まった。

 しかし私は大きな壁にぶつかっていた。もちろん中学生のころまで勉強をサボっていた分の勉強をしなければいけないということもあったが、それ以上に経済的な問題があった。日常家族で暮らしていてもガスや水道が止まることもしばしばあった。高校の制服や教科書を買うときも借金をしたり、親類に頼ったりした。だから先生になると決めたはいいものの、大学へ進学するのは物理的にほぼ不可能なことのように思えた。
 高校受験のときも交通費がなくて、先生に800円を借りた。高校の定期もまとめて買えないから、1ヶ月ずつ、ちまちま買っていた。「全日本高校生定期更新回数選手権」のようなものがあったら問答無用で優勝だっただろう。



それすら買えないときは、1時間半かけて自転車で通学したり、学校を休んでアルバイトをしたりしてお金のやりくりをした。

 アルバイトでは高校1年生にして、月に8万円くらいはコンスタントに稼いだ。放課後と土日しか働けない高校生にとってこれだけの金額を稼ぐのは至難の業であり、勉強との両立も簡単なことではなかった。バイト先の人からは、「若いのにそんなに働いて、何を買うの?」と言われたが、「いえ、ほしいものはありません。生活のためです」なんて言えなかった。アルバイト代は基本的に生活費や光熱費に回す必要があり、好き勝手に使うわけにはいかなかった。たくさん失敗したし、理不尽なことを言われたりもした。でもここであきらめたら今までの人生に戻ってしまうと思い、歯を食いしばった。
 とにかくこのような状態で勉強だけに集中するわけにもいかず、かなりの頻度で働く必要があった。大学の費用なんて3年間頑張ってアルバイトをしても到底足りそうにもなかった。お金の不安を抱えながら高校生活を送る日々が続いた。

  

 ■祖母の病気

 後述するが、中学2年生くらいからうちは貧乏になり始めた。もともと母子家庭で妹もいて、余裕のない生活だった。家賃が払えないからと言って、一人暮らしの祖母の賃貸アパートにもぐりこみ、4人で住んだ。

 ある時、突然祖母が倒れた。脳卒中という脳の病気だ。毎日のお酒とたばこが楽しみだった祖母がそのせいで病気になり、寝たきりの状態になった。要介護5という一人では話すことも食べることも排せつもできない。文字通りつきっきりで誰かがついていないといけない。唯一の収入のある母が仕事を辞め、介護にあたった。



老人ホームに入れようにも、要介護5というのはなかなか受け入れてもらえず、入居費用も当時はとても払えるような値段ではなかった。そのため祖母はしばらくの間自宅で介護することになった。

 介護はとても過酷な重労働である。精神的にもストレスになり、収入はゼロになり、支出だけがかさんでいく。1年ほどたったとき、ようやく祖母が施設に入れることになった。でもそのときは母も精神的に疲弊し、とてもではないが働けるような状態ではなかった。このあたりから貧乏まっしぐらになっていった。人生どこでなにが起こるかわからない。健康であることがどれほどありがたいのかを実感した。



■新たな出会い
 

何はともあれ高校生活は始まった。驚いたのは私の通う高校はどちらかといえば勉強が嫌い、もしくは苦手な人が集まっているはずなのに、みんな真面目に授業を聞いている。評判が悪いのは一部の生徒に過ぎず、全体的には真面目な人が多かった。

当時は学園系のドラマが流行っていた。私の高校のイメージはまさに学園ドラマに描かれている状況その ものだった。シンナー、タバコ、お酒、喧嘩、暴力、学級崩壊など、実際の高校でもそれが日常茶飯事に起こっているものだと思っていた。とある学園ドラマに 関しては、生徒がバットを教師に振りかざし、先生はそれを見事にかわし、生徒にぴしゃりとビンタをする。高校の先生ってすごいなと感心したものだ。そんな状況にもしっかり対応できるようにと、どうやって先輩の誘いを断るか、学級崩壊のような状況のときどうふるまうべきかなど自分なりにかなり予習した。

こんな貧乏で学力も低くて、ドラマと現実を混同する高校1年生に未来はあるのだろうか。私の勘違いや間抜けさはところどころ現れた。英語の授業でお相撲さんのようなネイティブの先生が授業にやってきた。そして、私にこう質問した。

「Do you eat a bagel?(ベーグルを食べますか?)」という他愛もないものだ。どんないきさつであったか覚えていないが、唯一覚えているのが当時の私には、

「Do you eat a米軍?」と聞こえたことだ。「bagel」と「米軍」を聞き間違えて、赤っ恥をかいたことがある。

他にもアルバイト先の飲食店で後輩に指導しているとき、何か気に食わなかったのか口答えをしてきた。私は「口答えするな」と言ったつもりが、

「歯ごたえすんな!」と言ってしまった。しかも全力で。

そんな私が「大学へ行きたい」と言っているから今思えば自分でも笑ってしまう。

高校の授業を受けてさらに「先生になりたい」という気持ちが強まった。もごもご話したり、なんの刺激もない授業をしたり「情熱」や「本気」を感じなかった先生もいたものの、担任の英語の先生だけは違った。親身になって話を聞いてくれるし、授業もわかりやすく、遠慮なくものを言う先生だった。ときには自分自身が出勤している高校なのにもかかわらず、「子どもができ たら絶対この高校には入学させない」とまで言っていた(笑)うそ偽りがなく、しっかりと自分の軸を持ち、生徒からの信頼も厚かった。

こんな短期間に二人の素敵な先生に出会えた。これはもうやるしかない!自分なら、この先生たちのようにおもしろい授業をすることができると信じ込んでいた。少なくともだらだとした「覇気のない大人」になるのは嫌だった。とりあえず大学受験を目指してみることにした。

 大学の名前なんて東大、慶応、早稲田くらいしか知らなかった。担任の先生の話によると英語はどの大学を受けるに しても必要だということで、英語の参考書を買った。わからないことは担任の先生に聞いたり、進学校へ通っている友人に聞いたりした。最初は単語一つ覚えるのにかなり時間がかかった。慣れないことばかりでたいへんだったが、どんなにつらくても「やめたい」とは 思わなかった。それだけ本気で「先生になりたい」と強く願っていた。

 「夢に向かって努力する」という新しい人生の喜びと刺激を知った。今までは「努力」とか「頑張る」ってなんかダサいことだと思っていたが、一番ダサいのはなんの目標もなくダラダラ過ごしてきた自分自身だった。

気がついたら、テレビも観なくなり、ゲームもしなくなっていた。今思い出しても不思議だが、机に向かったり、勉強したりすることが日課になり、なんだか楽しかった。いままで毛嫌いしてきた勉強というものにこんなにも一心不乱に取り組む自分が不思議で、別人のように感じた。目指すべき目標があることでこんなにもがんばることができるのかと驚いた。

  

■バイト, ボランティア, 勉強の3年間

 高校3年間は毎日毎日ほんとに休みがなく、アルバイトに精を出し、合間の時間を見つけて、受験参考書を読むという生活を3年間続けた。週に7日、あの有名なドーナツ屋で働き続けた。朝学校が始まる前にバイトをし学校が終わってからも働いた。高校1年生から平均して一日7時間は働いていた。それでも日々の生活費に消えていき、高校生の私はうまくお金の管理をすることができなかった。

正直、尋常ではないストレスを感じた。そんなとき私の通う総合学科高校では学外での活動やボランティアに参加することで卒業の単位になる(つまりその分授業をうけなくていい)ということを知った。後述するがこの不純な動機で始めたボランティア活動が私の人生においてとても大きな意味を持つものとなった。

ボランティア活動は単なる偽善であり、無償で誰かのために何かをするなんて何の意味があるのだろうというのが私のイメージだった。しかし実際に参加してみると、思いもよらない価値がそこにはあった。ボランティアだからこそできた経験、ボランティアに参加したからこそ出会えた人たち。「誰かのために」と思っていたボランティアが結果的には「自分のため」であるということを知った。何事もやってみなければわからないものだ。

それ以降はバイトと勉強の日々に疲れたらボランティア活動でリフレッシュという日々を過ごした。思いっきり遊んだり、それ以外のことをする余裕はなかったが、とても充実していたし、何より少しずつ目標に近づいている気がしてわくわくした。


■地獄の浪人時代 1浪目

現役時代、ある私立大学に合格することができた。しかしここで私は何とも言いようのない挫折を味わった。

「入学金がなく、進学できない」

  あてにしていた教育ローンの審査が降りなかった。

悔しくて悔しくて仕方がなかった。高校3年間がんばってきたことが一夜にして否定されたような気分でもあった。

浪人して更にいい大学を目指してやると、そのあと一年間アルバイトをしながら受験勉強をし、それなりにいい大学に合格したものの、同じく経済的理由で断念。通信制の大学に通い始めたが、自分には合わずこれも断念。浪人一年目は勉強に時間を使いすぎて思った以上に資金を貯めることができなかった。


当時の私は、お金がなくても頑張っていればなんとかなると思っていた。でも違った……。こんなにがんばっても最後はお金がものをいう世界に辟易した。物に八つ当たりしたり、貧乏に生まれたことを恨んだりもした。自分はなんて無力なのだろう。20歳前後の若造に、お金を稼ぎながら、受験勉強を平行させるのは至難の業だった。私の周りにも、「お金がない」と嘆いている人がいた。でも彼らは、車を持ち、家を持ち、親もしっかり働いている。これはお金がないのではなく、「贅沢をする余裕がない」というべきだ。ただ心のどこかでそんな彼らを羨ましく思う気持ちもあった。「お金がない」というセリフを口にするのも、耳にするのも惨めだから、必死に貧乏であることを隠した。

通常、浪人生は毎日何時間も勉強に没頭するが、私はそうはいかなかった。生活費や今後の学費のためにアルバイトをしなければいけない。浪人生とアルバイトを両立するとき、何が大変かといえば、頭の切り替えである。勉強して集中スイッチが入っているのにも関わらず、アルバイトの出勤 時間になったりする。逆に、アルバイト直後で仕事モードが抜けず、机にじっとすることができない。これは大きなストレスになる。


浪人していることも、お金に困っていることも誰にも知られたくなかった。自分を大きく見せるために必要のない嘘もたくさんついた。本当の自分をさらけ出すのが怖かった。ある日、年下の高校生のアルバイトに、「佐藤さんは普段何やっているんですか」と聞かれた。浪人生にとってこの質問ほど苦しいものはない。 「とりあえず毎日を楽しく生きてるよ」というようにお茶を濁した。

  そもそも時給800円程度ではどんなに頑張っても、大学にかかるくらいの費用を貯金するには無理があった。さらに私の場合は家にお金を入れる必要もあった からなおさらだ。「あきらめなければなんとかなる」ということをよく耳にしていたから、次の年も大学を目指してやると誓った。教育ローンの審査も検討し た。でも親が働いていなかったため、審査は通らなかった。

■地獄の浪人時代 2浪目

2浪目に入った。お金がないなら稼ぐしかないと、無我夢中でアルバイトに励んだ。複数のアルバイトを掛け持ちし、高校時代のように週に7日休みなく1日平均8時間アルバイトをする生活になった。この年の1日のスケジュールはこんな感じだった。

朝7時に起床。

午後1時まで勉強。

午後2時から夜10時までアルバイト。

夜12時就寝。


この繰り返しだった。半年くらいは頑張れた。しかしもう限界だった。身体的な面よりも精神的ストレスが尋常ではなかった。午前中を勉強時間に割り当てるも、前日のアルバイトの疲れが残っていたり、先の見えない不安が私を襲った。

じゃあ何を削るか?睡眠時間は5時間が限界であり、資金不足で大学受験を失敗したため、アルバイトを削るわけにもいかなかった。犠牲になったのは「勉強時間」だった。しだいに勉強に手がつかなくなった。一年前にできた問題が途端にできなくなっていて、知識がこんなにもすぐ抜けてしまうのかと驚いた。

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