人は必ず死ぬ、その過程はそれぞれ違うもの。
2007年に上梓され、2017年に加筆・再販されたこの小説には、再販の直前に病死した作者・小坂流加さんの最期の遺志が記されています。
それが特に表れているのが物語の終盤第21章で、病室で死へと近づいていく主人公・茉莉の内面を通して切実に伝わってきます。
私はこの章を読んで、死の一つのかたちを教えられました。
そしてそこには、あの歌が流れていました。
臨死体験をした者にしかわからない感覚、肌身に感じた恐怖が伝わってきます。
必ずやってくる死の瞬間が、本当に怖いものであるということを知ってしまった上で、それでもまだ生きていなければならない茉莉の静かな叫び声が聞こえてきます。
茉莉は入院前に、夢だった親友のウエディングドレスを作ること、そして自作の漫画を出版することを叶えますが、その上でこの境地に至るというのは、気力だけでは成し得ないことがあるという病魔の現実と、それに対する諦念が伺えます。
多くの人は年齢を重ねながら、時間を掛けて、今までできていたことができなくなっていくことに折り合いをつけるものですが、まだできるはずだと思える若さにある中、普通のことができなくなるという喪失感は計り知れません。
それを茉莉は、「心の割と治安のいい場所に埋めていく」という表現で、つとめて静かに、変わってゆく自身を見つめています。
茉莉は病室で一つずつ何かを諦めていきますが、ただここでわかるのは、作者の小坂さんはこの小説を最期まで諦めなかったということです。
力の入らない指でキーボードを打っていたのかもしれない。
力の入らない声で伝えたのかもしれない。
そんな姿を想像すると、今こうしてこの第21章を読めるのは彼女が諦めなかったからであり、どうしても書き遺したかったという執念を私は感じます。
茉莉は最期の瞬間、恋人だった和人への想いと、自身の本心を確かめます。
これは作者が、自身の最期の瞬間に、自分は何を思うのかという想像を重ね合わせることができます。
孤独を選んだけれども、それはやっぱり寂しい。
それを「ひとりぽっち」という言葉で表現します。
濁点の「ひとりぼっち」ではなく、半濁点の「ひとりぽっち」。
この言葉を聞くと、私はあの歌を思い出します。
この物語の中で、茉莉は何度も涙をこらえ、笑っていようとします。
ひとりぽっちの夜を何度も越えて、笑っていようとします。
茉莉を通して、小坂さんがありたかった姿が見えてきます。
最終章の第22章で、茉莉の親友が彼女のことを語りますが、それが作者の願望だったとしても、きっと作者自身も、最期まで周りに気を遣える優しい人だったのではないでしょうか。
この本が作者の死によって注目されていることは事実だと思いますが、作者の最後の孝行として、私はこの小説を肯定したいと思います。
本が売れるということは、家族や親しい人へのためになるということです。
小説という形をとることで、時代やジャンルを越えて、たくさんの人に届くかもしれない。
家族のために生きようと思っていた茉莉のように、小坂さんもそう願って、最期まで諦めずに、この小説を書き上げたのではないでしょうか。
人生の最期の瞬間、何を想うのか。
誰のことを想うのか。
想う誰かがいるような人生でありたい。
この小説を通して、私はそう思いました。
皆さんは人生の最期の瞬間、何を想いたいですか?