だから、もう少しここにいたい
娘が通うメキシコ幼稚園の先生と話していると、こちらの視界がぱっと開けるような感覚を味わうことが度々ある。
正解のない日々の子育てのなかで、迷い悩んで足元がぐらりと揺らぎかけたとき、背中を「ぽんっ」と叩いてくれる。
ついこの間も、わたしはそんな彼女らにまた一つ救ってもらった。
◇
バレエ教室の入り口で
娘が通う幼稚園の園庭は、狭い。都市部の園だから仕方がないけれど、日を追うごとに活発になり家中を嬉々として跳びまわっている娘に、もっと思い切り動ける場を、と試しにバレエ教室へ連れて行った。
フロア内には娘と同じ3歳前後の女の子たちが8人ほど。レオタードを着て小さなシューズを履いている。始まる前は親のそばに張り付いていた子も、レッスンが始まると駆けて行って鏡の前に並んだ。
「行っておいで。この間体験レッスンに来たから大丈夫でしょ」
今日はだいぶ人数が多いけれど、きっと大丈夫。確信を持って背中を押したが、娘は動かない。
「やだ。やりたくない」
すでにレッスンが始まっていたが、入口で娘とわたしの押し問答が続く。「行っといで」「やだ」を繰り返すうちに、みるみる娘の口がへの字に曲がり、目には涙が浮かんできた。
ああ、またか。
頑として動かず「マジで泣き出す5秒前」状態の顔を見下ろすうち、溜息とともにわたしまで泣きそうになるのをぐっと堪える。
どうしてみんなやってることが、できないんだろう。
ピンクのレオタードを着た娘と手を繋ぎ、2人黙ってトボトボと家へと戻る。頭のなかでぐるぐると渦を巻いていたのは、その日のバレエのことだけじゃなかった。
このままで大丈夫?
幼稚園に通い始めてから、「クラスの中で娘ひとりだけがやらない」ことがいくつも出てきた。
制服を着ない。お弁当を持っていかない。お遊戯会の衣装を着ない。先生から咎められたことは一度もなかったし、何より本人が嫌がることを無理強いしたくないと思う一方で、「どうしてうちの子だけ」と胸がざわざわしたのも嘘ではなかった。
「このままでいいんだろうか」ーー心の中に降り積もっていたそんな不安が、バレエ教室からの帰り道に弾けてしまいそうだった。
もやもやと悩んだその夜の翌日、娘を幼稚園に連れて行くと、入口でいつもの先生が笑顔で迎えてくれた。その顔を見たとき、以前彼女から言われた「いつでも、なんでも、オープンに相談してね」という言葉を思い出した。
そうだ、娘の日々の成長を見守っているのは、わたしたち両親だけじゃない。わたしは彼女と面談することにした。
シンクロした先生と母の言葉
アクリル板を挟んで先生と向き合うと、「今日はどうしたの?」と優しく聞かれた。
初めて会ってからもう1年。かしこまった話し方は必要ない関係だ。モヤモヤと悩んでいたことをそのままさらけ出す。まっすぐわたしの目を見つめながら話に聞き入っていた彼女は、こちらの話が終わるとこう言い切った。
「ぜんっぜん心配ないわよ」
「へ?」
つい間の抜けた日本語で返してしまう。
「わたしたちが一番大切だと考えているのは、自分が何をしたいか、したくないか、その子自身がちゃんと分かっていること。そしてそれを主張できること。あなたの娘は3歳でそれがしっかりできてるから、全然心配ない。わたしたちはこれからもあの子のその部分をどんどん伸ばしていきたいと思ってるわ」
それにね、と彼女は続ける。
「やらないことばかりに目が向きがちだけれど、好きなことや興味のあることはものすごく集中して一生懸命に取り組んでるのよ。なんでもみんなと同じにできるよりも、みんながやっていても嫌なことはやらない、代わりに自分の本当にやりたいことに大きなエネルギーを注げる方が、すごいと思わない?」
彼女の言葉を聞きながら、脳裏に蘇ってきたのは1年半前の記憶だった。
一時帰国の日本で受けた、娘の1歳半健診。そこで発語らしい発語がまだなかったことをはっきりと「遅い」と言われ、指示された遊びを指示通りにやらなかったことも「フォローが必要」と指摘された。その日の夜、どうしようもなく不安になり母にLINEをすると、すぐにこう返信がきた。
「言われたことを言われた通りにできるよりも、やりたいことがある方がよっぽど大切」
あれから1年半が経ったいま、違う国で、違う言語で、同じ言葉をもらったことに、アクリル板の前で静かに感動していた。
そういえばあのときも、そうだったなあ。毎日一番近くで見守って、日々の成長を実感していたはずなのに、他人から言われた一言で、ぐらっと気持ちが揺らぎかけた。
「ありがとう。話せてすっきりした」心の底から、先生に御礼を言って幼稚園を出た。
だから、もう少しここにいたい
本当は、日本人学校に移った方が良いんじゃないか、と悩んでいた。見学に行って園長先生にお話しを聞いたとき、「日本に帰国したときスムーズに馴染めるように、日本の子たちとなるべく同じことができるよう、サポートしたいと思っています」という言葉に、胸がどきどきした。いつかは日本に戻ることを考えれば、娘のためにはこちらの方がいいのだろうか。
それでも結局、わたしと夫は話し合い、9月からも現地幼稚園に通い続けることを決めた。それは、他でもないあの先生の言葉が強く心に残ったからだ。
「自分が何をしたいか、したくないか、その子自身がちゃんと分かっていること。そしてそれを主張できること」
いずれ日本に戻るとき、娘はもしかしたら苦労するのかもしれない。「スムーズ」には馴染めないかもしれない。それでもいまこのひとときは、娘自身もわたしたち両親も、メキシコ幼稚園から色んなことを学び、吸収できたらと思っている。