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「ピクニック」や「日常」で、世界は記述できないのか。

梅雨が明けた、はじめての日曜日。
友だち何人かで集まり、ピクニックをしました@新宿御苑。

ぼくはピクニックが好きです。
よく晴れ間に乗じてピクニックをしてます。
そして、好きが高じて2010年ぐらいから京王線ピクニッククラブなるものをやっております。
建築学科出身ということもあり、誰に言われるでもなく「ピクニックと公共」・「ピクニックと場」・「ピクニックと空間」について考えてるんです。
そこには、今まで語られてこなかった「場のあり方」や「コミュニケーションのあり方」があるような気がして。

でも、「ピクニック好きなんです」とか「京王線ピクニッククラブっていうチームをやっててですね」とかいうと
「あぁ、あぁ、そうなんだ。で、遠足がなんだって?」ってなことを言われたり、「え、マジで言ってんの?www」というようなことを言われ、

まったくそのおもしろさが理解されずに、そしてそのおもしろさがわかる人が(自分たち以外で)現れず、悲しい想いをしています。笑

今回もいつものように
「やっぱり、ピクニックっておもしろいんだけどなー」と思い、
ピクニックから「これからの場/コミュニケーション/感受 のあり方」が見つけることができるんじゃないかと考えていたのです。

実際のところそもそもnoteをはじめた理由が
ピクニックの理解のされなさへの不満と
ピクニックに文脈をつくりたいという想いがあったからでした。

◾️『「アガる」の対極としての「チル」』

そして、先日HOTEL SHE の企画・運営をされている龍崎翔子さんがnoteで書いた記事「“チルアウト”を言語化する」を読みました。

この記事はとてもおもしろく読ませてもらいました。
特に、『「アガる」の対極としての「チル」』というところがとても共感して。

日常を全部忘れてその時を楽しむ為に「アガる」場は世の中にいっぱいあるんです(僕はそれを非日常としているのですが)
それらももちろん好きなんですが、そうじゃない場ってあるよなと。
日常の延長線上にある平熱感や、日常に繋がるための空間の過ごし方、ゆるっとその場を過ごすような。

それを僕らは「超日常」とか呼んだりしてます。
日常と非日常の外側に何かがあるかもしれない。
たとえば、誰が何をして、どんなことを言ったなんて関係ないようなコミュニケーションや場がある。ピクニックってそんな感じな気がする。

◾️「抱いて普遍/放して普遍」

松岡正剛さんの「擬」という本の一綴りを思い出す。

第一綴 「抱いて/放して」
どうもユニバーサリズムやグローバリズムは説教じみている。「変」や「ちぐはぐ」や「あべこべ」を排除して、デファクト・スタンダードの設定の中だけで通用成立するプロトコルを普遍的だとみなしすぎてきた。
〈中略〉
こんなことをつらつら考えるうちに、ぼくはいつしか「抱いて普遍/放して普遍」と言うようになった。抱いても普遍だが、放しても普遍になるものがある。
普遍を抱きたければ抱きなさい、けれどもその普遍を放したって世界はそこそこ記述できるはずであるという意味だ。

はい。
なにやら、わかったようなわからないような。笑

でも、建築とか広場とか非日常とか、確固として固定されたものだけでなく(こういうのを「普遍を抱く」というのかな)
日常とかピクニックとか、あいまいでゆるっとしたもの(こういうのを「普遍を放す」と誤読したい)でも世界って記述できるんじゃないかと思っているんです。
まぁ「記述」とか言ってますが、単純にそういうものからでも言えることってありそうだよねーってことです。

◾️考えていること。ピクニックをやって(再)認識したこと

・ピクニックという場について
「ホストとゲストがない感覚→主・客が存在しない(厳密にはありますがね。場として存在しない)」
・日常と非日常の外側にある「超日常」(超日常ノススメ)
・持ち寄りについて
・ピクニックから考える公共空間(東京の屋外空間)
 →東京って、屋外利用のベストシーズンって2ヶ月ぐらいしかなくないか!?(笑)
だって、冬は寒くて、春は花粉あるし、そうかと思えばすぐ梅雨来るし、梅雨明けたら夏は暑いし、台風来るし。笑

そんな感じで書き連ねていけたらと思います。


 

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