zero(無)から。
クリエイターとして大切にしているのが、禅の教え。
何ものにも執着しないことが与えること
givingとは、ゼロ(無)であること
ここから発展させて、
creation(創造する)とは、zero(無)であること
坐禅する。
日常生活では
「オレが」
「JOYWOWが」
「MAIDOが」
・・・と、主語が自分の身体とつながっている。
坐禅する意義は、ここから離れる。
坐禅中は、
何ものでもない
zero(無)
坐禅終わった。
立ち上がる。
そこに重力や足の痛みを感じる「私」がいる。
「私」の創造。
周囲を見る。
部屋が見える。
窓もある。
光。
私以外のすべても「創造された」。
これ、一般相対性理論と量子論を結びつけて、宇宙の始まりの瞬間を説明するシナリオと同じ。
時間も空間もないzero(無)から宇宙が生まれた。
製品開発プロジェクトでよく言われるのが
ゼロイチ
0 → 1
ゼロから何かを生み出す。
坐禅する、ということは、これと同じで、zero(無)からすべてを創造する。
ふだんぼくたちは、コンビニで買い物したり、自社の商品を販売したりして生きている。
交換価値と物質価値のみの世界にいる。
では、コンビニの棚に並んでいる愉快な商品たちは誰が創造したのか。
もちろん、メーカーである日清食品が創造したんだけど、ではその日清の開発担当者はどこから発想したのか。
「信じて混ぜろ! きっとカレーになる」というのは、優れたコピーだ。
「美味しい」「美味しくなる」とは一言も言ってない。
でも「美味しいんだろうなあ」と感情を生み出す。
「完全謎パウダーって何?」
と製品への興味を引き出す。
名コピーだ。
これら製品やコピー、マーケティング戦略は日清食品の優秀な社員さんが創造したものだが、その発想はどこから?
zero(無)から。
ぼくは毎日書いてる。
その発想はどこから?
zero(無)から。
だとすれば、「これ、オレのアイデア」とか執着するのは非合理となる。
以上、今朝瞑想してたら浮かんだお話です。
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