氣を下に置く
「これぜんぶ、済んだ話やん」
初めてニューヨークへ観光行った時、メトロポリタン美術館で感じた。
「一日では回れませんよ」という話だったが、10分で飽きた。
美術は好きだ。でも、博物展示物は興味ない。「燃えないゴミの集まり」としか、見えない。
ぼくにとって、「いまの自分にどう生きるか」のリンク張れないと、意味が出てこない。
南禅寺三門。
楼上へ上がった。急な階段をえっちらおっちら。
特別に中にも入れていただいた。釈尊像、十六羅漢像、家康像、高虎像、天井の極彩色画by 狩野探幽&土佐徳悦、そして分厚い過去帳二冊。
南禅寺信徒部長・水野直樹さんの解説をいただく贅沢な時間。
「いまの自分にどうリンクできるか」考えつつ聞いていた。「済んだ話」ではもったいない。
そもそも三門というのは空解脱(くうげだつ)無相解脱(むそうげだつ)無願解脱(むがんげだつ)の三解脱門(さんげだつもん)を指すとのことだがようわからん(笑) つまるところ、今日からわしはどう生きればいいのか。
回廊に出た。
雪が降ってきそうな冷えびえとした京都の景色。
手すりが気になった。
400年前からここにある。
物理的実体として、400年、存在している。
これこそ、大事じゃないか?
解脱とかいうのは、あくまで脳内の話であり、氣の経営実践家のぼくとしては、自分へ寄せたい。
「飽きた」
と言って、昇ってきた階段を降りた。
降りながら
!
閃いた。
氣のコツは
「氣を下に置く」。
階段を転ばず、間違いなく降りるためには
「氣を下に置く」
これ、階段を上るときも同じ。
楼上に上がるとき、靴脱いだ。
これもたいせつ。
靴というのは装飾品であり、生まれたときには履いてない。
楼上に上がる、ということは、煩悩だらけの外界からしばし離れ、裸の本当の自分と対話するため。
だから靴、要らない。
そして、地球からの重力を感じながら、急な階段を上がる。
帰りは、下がる。
その時、氣を下に置く。
三門の急な階段の意味は、ぼくにとってはこう思えた。
氣を下に置く。
坐禅のとき、「臍下丹田に力を込めて」と言われることがあるが、正式には、臍下丹田に氣を置く。力を込めるとゆるめない。
水路閣。インスタ映えで有名だ。
みんなこうやって写真撮る。
でも水路閣の本当の意味は現在、いまここ、物理的実体としてどう働いているか。
裏山を上がると、水の流れているさまを見ることができる。
琵琶湖から引いた水を、いまも京都市内へ供給しつづけている。
これこそが、「いま・ここ」の水路閣物理的実体だ。
氣を下に置くのと同じく、重力の働きで、水は流れている。
仕事してたり、生活していると
嬉しいことが起こる。
このときの気持ちを表現するのに「舞い上がる」という。
舞い上がっていいんだけど、でも、そういう時こそ、氣を下に置こう。
氣まで上に舞い上がってしまうと、ロクな判断できない。
うまくいかないとき、「落ち込む」「落ちる」という。
これ、正式には、アタマ(脳内)に氣が上がって、「自分がいかに逆の中にいるか」考えている。だから決して「氣が下へ落ちてない」。
逆境の場合も、「氣を下に置く」。冷静な判断ができる。
そんなときの魔法の言葉。いいときも、悪いときも、こう言おう。
「あわてない、あわてない」
そして
「これでいいのだ」(笑)