小暮香帆ソロ活動10周年公演『D ea r 』 / 建築映画館2023『Koolhaas Houselife』 / Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』 / 金村修『Can I Help Me?』 / 小泉明郎『火を運ぶプロメテウス』
※各作品のトップ画像は公式サイトやニュースサイトより転載
《Day Critique》143
小暮香帆ソロ活動10周年公演
『D ea r 』改訂版
@BankART Station
この人のソロダンスを初めて見たが、周囲から聞いていたとおり素晴らしいものだった。
アクティングスペースの中央には、巨大な矩形の黒いリノリウムと、1m×30mくらいの白いリノリウムが敷かれている。黒いリノリウムは真っ暗な穴のようであり、その上を横切る白いリノリウムは細い通路のように見える。舞台脇にはシェード付きのスタンドランプ。冒頭、小暮はこのスタンドランプを後ろ手に持ち、裸の背中を観客に向けながら白いリノリウムの上をそろりそろりと移動していく。客席はこの白いリノリウムとほとんど平行に、横に長く配置されているが、冒頭のように観客とまっすぐ(背中側も含め)相対し・ときに客席に働きかけるようなシーンが多く見られた。
小暮のバックボーンはモダンバレエと笠井叡の天使館での修養にあるそうだ。それゆえか、バレエその他のダンスのイディオムはほとんど見られないし、舞踏的に何かを演じているようにも見えない。あくまで抽象的で個人的。ミニマルな照明と角銅真実の奏でるドローンのような音楽も、舞台装置としてはストイックと形容していいものだが、不思議とこのパフォーマンス全体から受ける印象は軽さ・滑らかさ・人肌の温度感といったものだった。ざわめく活気があったと言ってもいい。
ラスト、小暮は観客ひとりひとりと目を合わせながらスタンドランプの先を突きつけていく。上から見たシェードの内部では、裸電球がオレンジ色の光を放っていた。上演中は外側から見ていたスタンドランプの中身を見せられて、このランプと一緒に踊っていた小暮と同じ景色を共有した気がした。
(2023年2月5日記)
《Day Critique》146
建築映画館2023
イラ・ベカ&ルイーズ・ルモワンヌ監督
『Koolhaas Houselife』
@アンスティチュ・フランセ
アンスティチュ・フランセで行われた特集上映「建築映画館2023」でかけられた一本。傑作とのほまれ高いレム・コールハースの「ボルドーの家」を撮ったドキュメンタリー。
ボルドーの家は外から見ると他のコールハースの建築と同じく大胆で、抽象的で、まるでマレーヴィチの絵を立体にしたようだ。しかし中は迷路のような構造になっており、妙にエロティックな白い棒に触れると扉が開くなど、謎の仕掛けが施された様は忍者屋敷のようでもある。
しかし明らかに設計ミスでは?と思われるドアのサイズや、水漏れを始めとする施工の問題が噴出していて、掃除婦さんが大変そうだった。この家のさまざまなディテールはコールハースがいちから作ったそうで、実際に使うと不具合が出てくるのも当然か。こうしたネガティブな面ばかりがコミカルに描かれるが、これを表に出した施主やコールハースの寛大さはあっぱれ。
(2023年2月24日記)
《Day Critique》147
Dr. Holiday Laboratory
『脱獄計画(仮)』
@こまばアゴラ劇場
非常に複雑なメタ構造を持つように見える舞台だが、戯曲における大きなレイヤーはふたつ。
①「脱獄計画」という演劇の上演(再現)
②その上演についてのインタビュー
ただし①において上演を再現する役者たちが舞台上にいないはずの演出家について語ったり、②をやってるとインタビュアーが①の役を引き受けたりもする。さらに①の上演中に②のレイヤーにいる人物がツッコミを飛ばしたり、②で始まった再現が実は戯曲にないものだったり、さらにはそれを演じる役者たちが自由に役を入れ替えたりも。つまりレイヤーのそこかしこに穴が穿たれ、レイヤー同士がつながり、複雑なフィードバック回路を構築しているのだ。
最終的に舞台のテーマは戯曲とは、上演とは何かという問いに収斂していく。それは私とは何かと考えている私とは何かを考えている私とは……のような思考のフィードバック、「自意識の檻」にも似ている。
本作では四隅に蛍光灯を立てたリングのようなセットを用い、レイヤーの移動と撹乱を効果的に見せていた。こうしたメタ構造の表象は演劇が得意とするところなので、さまざまな形での上演可能性を秘めた戯曲だと思う。
(2023年2月25日記)
《Day Critique》148
金村修
『Can I Help Me?』
@MEM
ビデオと紙焼き写真を使ったインスタレーションと、コラージュ作品の展示。
コラージュ作品は、主に絵画のような6枚の平面の作品が出展されていた。そのうち4枚の大きめの作品は、離れたところから見ると乱雑な抽象画のように見える。しかし近づくとそれらが新聞や雑誌から切り抜いた嫌な事件の見出しや不味そうな食品の写真など「気持ちの悪いイメージ」の集積であることがわかる。ひとつひとつの断片は意味を持つものであってもそれが大量に集まると無意味になるという点で、さまざまな音が集まる街の音響空間や、大量の言説・イメージがあふれるSNSの写し絵のようでもある。
一方小さい方の2枚の作品は、さらに細かい切り抜きによって構成されている。大きな作品と同じく広告写真や見出しからなっているはずだが、それらは文節より小さく分解され、近づいてひとつひとつの断片を見ても意味を結ばない。コラージュは隅から隅まで徹底され、モネの睡蓮やポロックよりなおオール・オーヴァーな画面となっている。
大きい4枚と小さい2枚の作品は似ているように見えてまったく違うことをやっているが、共通しているのは、四角い画面にきっちり収められた平面のイメージになっていることだ。ちょうど居合わせた別の客が「大竹伸朗の作品のようだ」と言っていたが、かつて私が書いたように大竹の作品はすべて「箱」の形式を採っている。つまり本質的に立体の作品であり、平面を目指す金村のコラージュとの違いは大きい。
(2023年2月25日記)
《Day Critique》149
シアターコモンズ'23
小泉明郎
『火を運ぶプロメテウス』
@SHIBAURA HOUSE 5F
小泉明郎によるVR演劇。「プロメテウス3部作」の最終章とのことだが、第一作は未見。ただ、これまでに見たことがある彼のVR演劇に比べより強烈な体験だった。
観客はひとりずつHMDとヘッドホンを装着してVR世界を体験する。作品の冒頭、仮面を着けた人物がやってきて掌でこちらの目元を覆うが、視覚的には現実と見分けがつかないくらいリアリティを感じるのにそれに対応する触覚や空気感がないことで、すでに不思議な感覚を覚える。
作中、観客はナレーションの指示でVR上に現れる掌に自分の手を合わせ、拳を握ったり開いたりする。これはVRにおける没入感を高めるオーソドックスな手法だが、2〜3度にぎにぎするだけで映像の中の手が自分の手のように思えてくるのは、何度やっても驚く。人間は外界からの情報の7割だか8割だかを視覚から得ているというが、普段いろんな感覚器を使って生きているつもりでも自分がいかに視覚に頼っているのかがわかる。
そしてクライマックスで、火を手渡された観客は、自分の掌から炎が上がっているのを見ることになる。もちろんこのとき実際の皮膚は熱いはずがないのに、なんだか熱いような熱くないようなもぞもぞした気分になる。視覚から入る情報と皮膚感覚のズレが、日常生活では感じられない不思議な体験をもたらしているのだ。
これは没入と言うより感覚の撹乱であり、経験の異化と言えよう。VRというと没入感の高さがイコール完成度であると評価されがちだが、このような新しい感覚・経験をもたらす方向性にこそこの技術の可能性があると思う。
(2023年2月27日記)