![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57923490/rectangle_large_type_2_6db035f10bbc00be26f9e1470dbde50d.jpeg?width=1200)
過度な自己責任論、日本人にこそ知ってほしい日本という国の現状
自己責任論とは
自己責任、双方ともに至らない点があった。やられたほうにも過失がある等、責任は被害を受けた当人にもあるという考え方が日本人にはなじみ深いと思われる。「出る杭は打たれる」という言葉が示す通り、日本人はひときわ目立つ人や、変わった行動をとる人に厳しい一面がある。古来より邑八分目にされないように、周りに合わせてきた風習の地続きの精神だといわれている。
確かに、どんな結果にも当事者である本人に責任が全くないと言い切ることはまずできないが、過度な責任を背負わせるのは間違っているといえる。結果に行った過程や背景を調べて責任の所在はどこにあるのかを把握してから責任を問うべきだと思う。
だが、現在の日本の責任論は行き過ぎていると思われる。
日本の自己責任意識の強さ。他国と比べて
去年のデータによると「「コロナウイルスの感染は感染者本人の自業自得であるか否か」というアンケート調査にて、自業自得だと答えた人の割合が最も多い国は日本だった。しかも、その比率はアメリカやイギリスなどの約10倍近くに昇り、2番目に高い中国と比べても2倍以上という他国と比べて異常に高いという結果となった。
コロナウイルスはまだ未知の部分が多く、感染対策を万全に行っても防げるとは限らない。密を避けるようにしたくても仕事などの都合で避けきれないずに悩んでいる人も多いと推測される。感染するかしないかは本人努力よりも、置かれている環境や運に左右されやすく、自己に責任を問うのはあまりにも酷なことではないかと思われる。
もちろん、全体の割合は10%ほどで少なめではあるが、他国と日本では責任に関する認識の仕方に大きな違いがあるといえる結果に、日本の自己責任論に偏りやすい傾向が独特なものだということが言える。
今の日本は和の精神よりも見限る精神のほうが強い?
さらに、「窮地に陥っている人を助けるか見捨てるか」という10年ほど前の各国のアンケート調査でも、日本が見捨てると答えた割合が40%という結果になり、アメリカの30%の比率を抑えて一番の多いという結果になった。ちなみにそのほかの国は10%程度の結果で、日本とアメリカが見捨てる方に抜きすさんで強い傾向があるといえる。
アメリカは強い個人主義の傾向があり、個人の実力で生きていくことが前提の国であるため、困窮者を助けない風潮があるのもわからないことではない。
けれども、日本には和の精神というものがあり、困ったときはお互いさまと助け合いや協力の精神を掲げてきたと思ってきた。和の精神の根底に自らの身の安全を得たいという、利己の側面があったとしても、助け合いを美徳する文化があると信じていた。
また、動物には子供や仲間を守ることで自らの種を途絶えさせないように動く、本能が備わっている。人間にも同じ本能は備わっており、いくら理性が進化しているとはいえ、窮地の仲間を助けようとするのは生物として当たり前と捉えるものが多いはずである。実際に多くの国は助けると答えた割合が90%近くと高めなことからも頷けることだと思う。
しかし、日本は個人主義意識の強いアメリカさえも超えて、困窮者を助けない不寛容な精神が広がっていることを示している.これは、生物としての本能の観点からしても異常すぎる事態といえるかもしれない。
当事者意識の薄い国民性と民主主義の歪み
日本人の感性の異常さの発端は日本人の政治に対する姿勢が関係しているのかもしれない。元々、日本の民主主義は戦争に負けて、アメリカに統治されていた時にアメリカの民主主義をそのまま導入したのが始まりである。そのため、日本人が自分が作ったものではないため、最初から当事者感覚が持ちにくい指針なのかもしれない。
当事者意識が低くとなると、逆に被害者意識は高くなりやすくなる。そして、被害者意識が強くなると自分を守るために他人への攻撃性が増すという調査結果があり、被害者意識は不寛容の姿勢につながりやすいと推測できる。日本人が自己責任論を訴えることが多いのは、自国の政治を含めた他人に対する無関心と不寛容が常駐化しているからかもしれない。
それ故か、日本の政治の問題の一つに選挙での投票率の低さが挙げられる。これは日本の国民は自分たちで政治を作っているという意識が低いからだといわれている。しかし、民主主義国家としてこの状態は異常なことである。
なぜならば民主主義は本来国民の投票によって政治の役員や方向性を決める国民が主体となって政治を作る国家を指す。その国民に政治に関する当事者意識が欠けているというのは既に民主主義の前提条件を満たしていない、すなわち、歪んだ状態の民主主義になってしまっているといえる。当事者意識が薄い国民が当事者意識の無い政治を作り、その政治に希望を失い当事者意識を持てない国民が生まれるという悪循環が長年続いているのではないだろうか?
悪循環の被害者と当事者意識の必要性
その悪循環で被害を被っているのは主に、貧困世帯や障がいを抱えた人達だと思われる。当事者意識が薄ければ、貧困や障がいにによる生きづらさなども見捨てられやすい。加えて、比較的少数派である彼らは多数決で政治を決める社会では、自らの意見を述べても聞き入れられることはほぼない,正に八方ふさがりの状態に取り残されているといえる。
けれども、少子高齢化が著しく進んでいる日本では若い力は必要不可欠だ。彼らの支援や理解は本来最優先に取り組むべきことであり、政府のみならず国民全員の義務ともいうべき見過ごしてはならない課題である。
では、何から取り組むべきか?それは、日本の国民が自分が国を作っているという自覚を持ち、国が抱える問題に当事者意識をもって向き合うことがまずは大切だと思われる。国や正義感が強い人たちが何とかするだろうと他人事にしている限り、問題は解決どころか検討すらされない。だからこそ、自分たちのできる範囲で国や社会の情勢や問題に関して意識し、自分なりの見解を考え続けることが解決に向けってのファーストステップだといえる。
さらに言えば、他人と意見を交換し合い、自分の見解を再度見直し、意見を長期にわたって深めていくことも大切である。短期的な解決策で解決できるほど、簡単な問題ではないので、中・長期的な過程を想定しながら意見を構築する必要がある。
最後に、素朴理論を疑うこと多様性の実現に向けて
ここまで、日本のという国がほかの国と比べてもかなりの個人主義的な傾向が強く、少数派に冷たい体制が長く続いているということを語ってきた。さらに、その体制が改善されないといずれ社会を維持できなくなることも述べさせてもらった。正直、問題の大きさに愕然としている人もいると思う。自分も初めてした時、同じ気持ちになった。
また、見解を持つといっても何から始めればいいのか思いつかない人もいると思うので、一つ自分が現在試していることを記載させていただく。それは、「当たり前だ」や「当然なこと」と思ってきた”素朴理論”を疑ってみることだ。
例えば、本を読めば、読解力が身につくといわれているが本当なのか?介護士の仕事はやりがいがある仕事だから低賃金でも仕方がないのは正当な理由なのか?など、身近でいわれている常識ともいえる理屈に対して別の方向から見えないかと探ってみることで意外な事実に気付けるきっかけになる思われる。ちなみに、現在はただ本を読むだけのでは読解力は身につかず、論理的な読み方を学ぶ必要があるといわれており、介護士の仕事も賃金や業務配分に見直しが必要だと述べられている。
そして、自己責任論という理屈も考えてほしい、果たすべき役割や責任は確かにあるが、一人一人の違いや境遇を考えずに当たり前や基準を求めるのは間違っていると思う。さらに、他人の責任だけでなく、自分の果たすべき責任についても適切に向き合うべきである。特に自国の方向性を考えて選挙に向かうことは国民の義務だと思っている。たとえ結果が出なかったとしても、国に向き合う姿勢はとても大切なことだ。他人ごとにしてはいけない。
おそらく、とても難しい理想論を語っているのだと思うが、現在推奨されているダイバーシティ・インクルージョンを実現させるには個々の違いを排除するのではなく、受け入れ相互で理解をしていく寛容な姿勢が不可欠である。その姿勢を持つ者を育てる上でも現在の日本は余りにも厳しすぎる環境だと思われる。。環境の厳しさは人の潜在的な力の発言を妨げるという研究結果があり、成長への悪影響は小さなことではない。環境を整えることの意義は大きく必要なことだといえる。
この記事は、少しでも日本という国の状況に対して能動的な社会参加を行おうとする人が現れることを祈って書かせて頂きました。拙い文章構成で申し訳ないが読んでいただけたなら幸いです。もしよろしければ感想を送っていただけるとありがたいです。