「恋」と「胸の痛み」
「好き」という感覚が、「痛み」として、感じられるとき、
それを「恋」と確信する
という、感覚の覚えは、ありますか?
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今日のお題は、「恋」と「胸の痛み」
これは、恋が「病」であるという感覚と等しい。
ただの「好き」でなく、
ただただ、どうしようも無く、意識とは別のところで、
無性に惹かれてしまう、それを、「恋」というのではありませんか?
「恋」とは、つまり、
嗜好に近い、つまり、感覚の分野のモノ(ノ気)。
そして、「恋」が、「痛み」と関係しているのは、
それは、交流分析用語でいう「ラケット」
つまり、「第二感情」のようなものだから。
理論にしてしまうと、味も色気もないけれど、
過去(子供の頃)の、自尊心を曲げた気持ちや体験
たとえば、「我慢」や、「自分を曲げる」、
「心に反した立場や役目を受け入れる」体験、
いわば、それは、子供の無邪気さにとって、
外部の(相手の気持ち)の想像が未発達の年齢の時代には、
思い通りにいかない、「苦痛のトラウマ」であったり、
人間や生き方についての、「自由を失うような体験」であったり、
解釈のできない「理不尽」のまま、呑み込んだ「煮え湯」の「痛み」や
「もだえ」の感覚であったりする。
自分をムリに曲げて、外部に従うことで、社会に適応した体験。
これが、「根底(トラウマ)の痛み」
根底の「痛み」の感情に対して、
その別の形の再現感情を「第二感情」と捉える。
「ラケット」というのは、第一(根底)と、第二(打ち返し)の
感情の内容が、同じで無くて、「反応・打ち返し」であったりすることに因果する。
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本来、人は、「痛み」や「苦痛」に気付くと、
「調整」しようと試みたりする。
自己回復力さえ、発揮することもできる。
にも関わらず、自己回復機能に反して、「痛み」「苦痛」に、引きつけれるのは・・。
その「痛み」が、それで良かったのだと想うことで、
自分の「痛みの伴った体験」を正答化(OK)するために、
人は、あえて、自らの「痛み(自虐)」を繰り返そうとする。
というのが、交流分析の、ラケット感情やゲーム理論の解釈。
インナーチャイルド理論の、お世話役とお世話され役の解釈も同じ。
恋愛依存症の、理論は、「見捨てられ不安」のインナーチャイルド理論が根底。
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つまり、
「恋」が「痛み」と関連しているのは、
「恋」に、トラウマが関連してるからと言える。
そして、「恋」が「病」の所以は、
正気なら、
本来は、人は「痛み」や「苦痛」を調整するために、機能を発揮するが、
「恋」に関しては、「痛み」に惹かれて、
自己調整機能を麻痺させてしまうから、と言える。
その「痛み」に、基づいた人生の適応イメージ(人生脚本:交流分析用語)が、
無意識レベルで、求める感覚。
それは、自分の「人生イメージ(適応)のカケラ」に他ならならない。
適応したものが「痛み」であれば、
人は「痛み」で、「自分の存在を確かめる」ということになるのかもしれない。
これを、「負」の「人生脚本」という。
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人生の適応イメージ = 人生脚本(交流分析用語)
一般的な脚本の構成と同様に、脚本を構成する装置がある。
一般的な脚本の構成と同様に、アンチテーゼも内包している。
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私個人、
最近、もの凄く心聴かれる、感覚に惹かれている。
それは、まぁ・・「曲」であり「歌詞」であり、
結局はそれを作る「人」がいるわけだけど。
その「痛み(自滅的)」と、自分の「根底の痛み」がリンクしてまう。
エンタメの好き嫌いは、概ね「自己投影」できるか否かの部分があって、
「自己投影」と、気付いていれば、発展的に、解釈できる。
惹かれる部分が「痛み(自滅的)」だったとするなら、
確かに「病」な要素はあるのかもしれない、
負の人生イメージを持っている方は、特に、「衝動」には、注意を払いたい。
「衝動」こそ、負の人生イメージにプログラムされた、
「負」の「人生脚本」の執行に他ならない。
本当は「自由」選択する「自由」は、いつでもある。
自分の人生は、「自分で選択できる」
「選択できる」自分がいる。
「選択できる」自分を養ってきた今がある。
「選択できる」自分の選択を信じる選択をできる、
そんな自分でありたい。
「負」は「行動」するか否かが、大きな境目
「負」は、「気づく」ことに、「大いなる意味」が派生する。
「行動」でなく、「気づき」の体験を有効利用することで、
人生イメージを 広げる切っ掛けになる。
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逆に「痛み」が恐いから、
「トキメキ」や「感覚」ごと、封印してしまうのも・・ありがち。
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人は、負の感情の存在や「痛み」の存在を認めることを
無意識にさけがち。
「自分の弱さ」に見えてしまうから。
本当は「負の感情」は、意味があって、
気付くことが大事なのに。
誰でも「負」は観たくないし、言いたくないし、気付かぬふりをしている。
「負の感情」は、行動してしまうと負になるけど、
「気づき」の段階では「発見の元(宝の入り口)」なんですけどね。
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随筆しながら・・気づく。
これは・・自分(私)自身ですね。
見える世界はすべて自己投影(笑)のなすこと(苦笑)。
私にとって、エンタメは、ご褒美なんですね。
頑張っている自分を愛しましょう・・。自分へのご褒美を!。
私への私からのご褒美は、エンタメを感じる 自由、暇です(笑)。
そのエンタメが、「痛み」だっとしても・・
そのエンタメに「恋のような魅惑」を感じてしまったとしても・・
ここまで書いて、自分の「抵抗」に気付きました。
私は、「痛み」に向き合うことに、躊躇していたのですね・・(笑)。
自分の感覚を信じましょう!(と、私自身に言っている)。
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本来、自分のことは、自分が一番知っている。
自分のがんばりに、自分へご褒美を与えるとしたら、
あなたへのご褒美は・・何ですか?
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