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「死に急ぐ衝動」鬼滅の刃 煉獄杏寿郎の人生脚本

庭の 梅の花が ほころび始めました。

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今日のお題は、「死に急ぐ衝動」

今日、暁に覚めたとき、
私の中に、「炎」が流れていた。

そう、 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 の主題歌です。


炭治郎たちと、鬼殺隊最強の剣士の1人である炎柱の、煉獄杏寿郎のお話しです。


煉獄杏寿郎の背景が、ところどころの回想シーンや夢(無意識領域)の展開から、彼の、人生脚本(交流分析(TA)用語)を、
勝手に、感じることができました。

それは、絵に描いたような  解説しやすい
人生脚本のように、私には思えた。

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■「煉獄杏寿郎」の人生脚本を、うろ覚えの部分もありますが、
「見立て」を試みたいと思います。

★彼の禁止令: 父の杏寿郎に対する態度から
1)存在の禁止
  「存在していはいけない」「必要ない」
2)自己の禁止
  「ありのまま(自身)であってはいけない」
3)子供であることの禁止
  「子供のように楽しんではいけない」

★対抗(拮抗)指令: 母の杏寿郎に対する態度や言葉から
1)強くあれ
2)人を守り助けよ
3)一生懸命に

対抗(拮抗)指令とは、受け入れがたい禁止令を
回避(対抗)するための条件として働き、
対抗(拮抗)指令が実行出来ない時は、
極端に禁止令へシナリオへ傾く性質のもの。

★幼児決断(決意)
父は私を認めてくれないが、母に認められれたい。
私は守る。弱き人(母の面影投影)を私が守る。
たとえ孤独であっても私が守る。私は強く在ろう!。

★脚本
人を守ること、強くあることの方が、私の存在や命より、意味がある。
自分の命より強くある人生を!。

★脚本の(悲劇的な)結末
守るため強くあるために、死す(存在の禁止)

★誘発刺激(結末に追いやるような刺激)
鬼滅隊、鬼との戦い、人の死、命の尽きる人間であることを選択

★行動範例
鬼滅隊柱の先人?、死んでいった隊員?

★内的解放
煉獄杏寿郎の 夢の中?

★脚本衝動(悲劇的な結末にむかわせる衝動)
鬼への嫌悪衝動。鬼との戦う衝動。


以上のように、「煉獄杏寿郎」の人生脚本を見立ててみました。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 まだ、観ていない方は、是非劇場へ!
(「鬼滅の刃」と私は無関係です。応援心はありますが、広告のつもりはありません、理解的に読んでいただけると有りがたいです。)

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本当のところは、
2時間のストーリー仕立てでは、解らないと思いますし、
作者さんや、「煉獄杏寿郎」さんが、違うと言ってしまえば、
違う人生脚本が存在することになりますから、・・
あくまでも私の「見立て」の範囲です。

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なんで、「煉獄杏寿郎」さんの人生脚本を紐解こうと思ったか、

それは、やはり、

「存在の禁止」令を持ている、

という、私との共通点に尽きます。


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「存在の禁止」令にも、程度や度合いの差がありますが、

多かれ少なかれ、無意識レベルで、
平穏で温厚な死をイメージしていません。


「死に急ぐ」ように、見えることもある。

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「無意識レベル」というのが、ミソです。

経験や、成長の先に、
論理的思考が発達して、洞察(観察、五感・六感を含む)を、
理論で偏りのバランスを修正しながら、
「理解」や「調整」ができるようになると、

自分の悲劇的な人生(人生脚本)を、自ら描き直すことが可能になります。

しかし、その工程には、「無意識の中の、自分の習性や偏り」を
知っておく必要が生じます。

しかし、自分の無意識と向き合うことを、怖がる人もかなり多い。


自分の制御不能な領域と感じることも、多く、
そこに、闇や不安を、漠然と感じるからだと思います。

特に、思考の発達が未成熟な場合は、
闇や不安に対しての対処を、自身の中で構築できない、
あるいは、構築するすべを持たないからだと、
理解すると、解りやすいです。


闇や不安への対処(武器や盾)、
つまり、武器や盾を持たない状態で、魔物のような敵と
出くわすことは、相当の恐怖かもしれません。

無防備で、恐怖にぶかっていけるのは、


「存在の禁止令」など、

恐怖を超える誘発刺激や衝動を持っているケースが多いように思います。

「存在の禁止令」を内在している人は、
往々にして、死に対しての恐怖心が薄い傾向があります。

これを、「勇敢」とか、「超人」とか、「無謀」とか、
言い換えることもしばしばあります。

もしも、

自分の、「無意識レベル」

つまり、「衝動」や、「習性(クセ)や、浸りたい、獲得したい「感情」の中に、

「自滅」や、「自己犠牲」「悲劇的」なものが巣を造っているのなら、

あなたは、「悲劇的な人生脚本」で生きている、可能性が高いです。

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「闇」、病み、ヤミ という言葉を、
自他、自己表現を作品化する時に、使う事が多々あります。

「死」というストーリーの表現物も多いです。


他人が「闇」という言葉を使うのを客観的に感じようすると、

「闇」とは 何か?

という、疑問が生じ、


自分の使う「闇」について、自問自答したけど、
その時は、丁度 はまる答えが見つからなかった。


ふと、今朝、

私のココロの奥にある「闇」が何か、解った気がした。

それは・・・・


衝動(無意識レベルの行動)という、分野の、

「自滅衝動」と「破滅衝動」と、「自己犠牲」と。


だから、私は、理論の土で、自分の衝動を葬っているのです。
という解釈に行き着きました。


されど、時々、死んだはずの衝動が、幽霊や亡霊の様に、
痛みと闇の空気の中で、うごめき、もがくき出すのです。

「死に急ぐ人」(存在の禁止)が刺激となって。


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近々、学生時代の友人を若くして亡くしました。

私にとって、彼女の死は「誘発刺激」となりました。

悲しみと涙がとまらなくって。
これ 私にとっての「感情」の再起。


「感情」が張り詰めて、なんで悲しいのかすら、自己分析できない。


めずらしく「思考」滅しました。


私の中の「思考」が止まると、
私の中の「衝動」が誘発され、
私の中の「悲劇的な習性・想いクセ」が、

私の、過去にシフトさせたハズの、

「悲劇的な人生脚本」に、私を 戻そうとするのです。

衝動的時代の友人や、
悲劇的な感覚や感情、
悲劇的な想いグセ、口癖


残った人々は、私に言います
「友人の分も、楽しく生きよう!」
「がんばり過ぎず、楽に生きよう!」


..... 私にとって「生きる」ことは「苦」であり、決して「楽」ではない。

と・・改めて想ってしまうのです。


衝動と悪い習性でつぶやく。

「死んだ方が楽だな」・・と。


これ、「存在の禁止」の なす技です。

私の中に組み込まれた、悲劇的な忘れていた脚本の一部です。

こうして、何かのために誰かにためにと 言い訳して、
「生きる」ことに背を向ける。
悲しみの中の、悲劇的な闇に、脚をとられて、動けない。

昨日は、そんな一日だった気がします。


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一晩明けて、


私の、息苦しいほどの「理論的思考」への執着が、

自分を、悲劇的な「衝動」「感情」「習性・クセ」から守る、
葬りの土なのだと、気づかされました。

そして、それは、
時々闇から聞こえるゴーストのうめきに対する、
防衛であり、「生」を切り開く、剣であるのかもしれません。

幼い私に、「死んじまえ」と耳元でとなえた姉や母と悲劇的な過去から、
「理論」を使って、
今の「生」を切り開いて、生きているのです。

もうしばらく、「生きる」ために、
私の悲劇的なゴーストは、理論の結界の下で、
安らかに眠っていただきましょう!。

「理論」で弔って。

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理解的に 読んでくださって、ありがとうございます。
感謝です!。


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