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それは救いにも、刃にも、


1.11  1:12PM


最近、僕の文章を好きだと言ってくれる方がいる。
もちろん会ったことはなく、これから会うことがあるのかも分からないけれど、そう言われる度に僕は安心させてもらえるのだ。

noteを始めて、今では毎日投稿しようとなるべく努力しているわけだが、始めた時はこんな言葉を頂けるとは思ってもみないだろう?
今まで試してきたことに成果が出なかったために(言うてそれほど継続してない)、今回も例外ではないだろうなと思っていたけれど、思いがけないところから天使は降りてくるんだな。

自分の言葉をこれほど多く残したことは、かつてなかった。
残そうと思ったこともないし。
物語は一つだけ書き上げ、今はまた別の物語をパソコンでカタカタしているわけだが。

以前YouTubeに投稿していた時にも言葉を発信していたけれど、あまりにも悲観さが度を超えてしまい、醜態を晒す結果となった。
ので、やめた!


ここでは、読んでくれる方もゆっくりと増えていって心から舞い上がっている。

隣で一番応援してくれる人もいる。

文章が好きだと言ってくださる方もいる。

その方も僕と同じように苦しみ、言葉を綴っているのだと思うと、とても言葉にはならぬ思いが溢れてきそうなんだ。

その方はコメントで伝えてくださるけれど、いつも返信に困ってしまう。
それはなぜかと言うと、自分と同じ思考をしていると感じるから。(感じるだけ)

もし僕と思考が似ているのならば、僕が返す言葉を浅薄だと思ってしまうかもしれない。
知らんけど。
「ありがとうございます!」一つでも、どう伝えれば素直に受け取ってもらえるだろうかと考えてしまう。
まあ、それは誰に対しても同じなのかもしれないけれど……。
「ありがとう」と言われた時に、僕は少しの疑惑が浮かんでしまう。
本当に思ってるんか?って。
これは完全に僕が良くないのだけど、癖というかなんというか、必然的に思ってしまう。


自分とは異なる人種の人間は、もちろん何も分からないので対策のしようがない。
似ている人間は、似ているからこそ簡単で、難しい。


あなたが誰かの言葉で救われたように、僕や、また他の人間も救われている。
自分の文章は拙いと言うあなたの文章を拙いとは思わないし、もしそうでも誰かには刺さっている。これは確か。(どこから目線)
好きだと言ってくださる僕の文章も、僕からすればひどく稚拙なもの。
絶望しながらも、書いて欲しい。
(そしていつも有難う御座います)

きみのみりょくに
きづいてないのは
きみだけかもよ

(これは、さっきマカロニえんぴつのはっとりさんがツイートしてたもの)


今だって、徐々に何書いてるか分からなくなってきている。

どこに住んでいるかも分からない存在に、ふと救われたりするのが人間なんだろう。

言葉は救いにも刃にもなる。
だから慎重に選ぶ必要があるし、だからこそ、選ばない言葉に魅力を感じたりする。

そして、伝えないことには救いにも刃にもならない。

恋人に手紙を渡すなり、口で伝えるなり、いつ伝えられなくなるか分からない言葉は伝えておくべきかもしれない。
べきだ! とは言えない。
家族も友人も全部そう。同じ。

鋭くて脆い言葉たちは、その言葉たち自身も守ってやらなければならなくて、そして、その言葉たちを伝えるべき相手も守らなければならない。


ならば、どうするべきだい?






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