考えて、考え手

 書く人を書き手、作る人を作り手、読む人のことを読み手と呼ぶならば、考える人間を、考え手、と呼ぶことができるのではないか。立場や肩書きとして書き手や作り手があるならば、それの一つとして考え手というものもあり得るのではないか。

 「考え手」という呼称を私が最初に耳にしたのは今年の一月半ばのことだった。
 慌ただしい年末年始の一時が過ぎ、年の初めに、今年こそやろう、とぼんやり考えていたものが何だったのか、この時には早くもあやふやになっていた。
 時々、長電話をするTと話している中でのこと、やるやるとずっと前から言っていることをやっていない、何もやっていないわけではないし、本は読んでいるらしい、しかし、ずっと作り始めない、あなたは作るのが主なのではなくて、考えることの方に主があるのではないか、あなたは書き手、作り手ではなく、考え手なのではないか、およそそのようなことをTは私に言ったのだった。
 物を読むのが好きで、物を書くのも好きで、自分を読み手や書き手として認識したことはあったが、自分が考え手であるとは考えたことがなかった。そもそも、考え手という立場があることを考えたことがなかったのだ。
 しかし、考え手という言葉を差し出された時、自分の状態を指し示す語として、しっくりくる感じが私にはあった。
 考えるということ、思い出すことや、覚えることや、感じることとは違って、ある物事について、それがどうしてそうなっているのか、何をどうしたらあれがこうなるのかと類推をしたり、似たものと照らし合わせて想像を働かせたり、筋道を立てて整理したりするという意味で、考えるということ。言われてみれば私はそうしたことをしきりにやっているかもしれない。
 数年前に考えることについて考えて短い文章をしたためたし、オンラインでの小さな勉強会で、考えない方が上手くいく場所で考えるということについて発表をした覚えもある。外に向けて書くのではないが、考えごとを進めるために紙にペンを走らせることもある。

 もっとも、厳密に言うならば、何も考えていない人などいないだろう。
 今日の昼飯は何にしようか、ということから、どうやったら甲と乙の関係を良好にできるか、かんかんに怒っている人の気持ちをどうやって鎮めたらいいか、事務所のリフォームをどっちの業者に依頼しようか、などなど、各々直面している課題があって、その課題を乗り越えるためにそれぞれの人が何かを考えている。
 だから、自認した人から誰でもことごとく考え手なのだと言えば言えてしまう。
 だが、私が取り上げて考えたいのは、自分が直面していないことについてまで、わざわざ考える考え手のことだ。
 半ば実感から言うしかないのだけど、考え手の中には、考えてもどうしようもないことについて考える者がいるはずだ。
 自分が直面している問題ではないもの、いくら考えても当事者でなければ解決できない問題や、考え抜いた結果「たぶんこういうことなのだろう」と思っても、何も裏付けるものがないから「そうだと思う」と言って終わるしかない事柄、考えて、考えた先でどん詰まってもやもやしたり、考え終わるしかないこと、そうしたものについて想像したり、仮定したり、整理して考える。
 はたから見れば何もやっていないようにしか見えないが考えている。当事者でも行為者でも作り手や教え手や助け手でもない、考え手としか呼べない考え手、もちろん、それをそのまま職業とすることはできないとしても、この考え手を意義のある一つの立場として捉えることはできないだろうか。

 どうしようもないことを考えることに意義を見出すこと自体はやれないことではない。
 「どうでもいいことまで考えることが考える力を鍛えることになる。そして、本当に頭を絞らないといけない問題に直面した時、その力が活かされる」と言ってしまえば、もっともらしい言い分になる。
 この言い分自体、間違ってもいないのだろうが、問題に直面している時、考え手はもはや「考え手としか呼べない考え手」ではなくなっている。
 考え手という大きな円があって、その大きな円の中に色のついた小さな円がいくつもある。小さな円のそれぞれが作り手や書き手、助け手や支え手や教え手の円になっている。考え手とその他の立場について、私にはそのようなイメージがある。
 色のついた小さな円は、考え手かつ作り手、考え手かつ書き手、考え手かつ教え手……、となっていくわけだが、大きな円の中にあって、その中でどの小さな円にも含まれない考え手がいる。そうした考え手を肯定的に捉える言説はないだろうか。考えていきたいのはそういうことだ。

 私の考えは何もまとまっていない。ただ、考えることについて「これは趣味でやっている」「意味があるかどうか知らないが好きでやっている」と開き直ってしまってから、考え手としての態度を研ぎ澄ましていくという道はあると思う。
 金になるか、役に立つか、体に良いか、人に褒められるかどうかといったことを度外視して、カラオケに行ったり、花を育てたり、土をこねたり、山に登ったり、ハーモニカを吹く人がいる。それと同じように考えるのが好きだから考えている、というところから考え始めるのはどうか。
 考え手が考え手に踏み留まる必要はない。ただ一方で、考えて、考えて、考えた先に何にもならなくたっていい。ただ考えていることが、良き趣味がもたらす豊かさをその人にももたらす。

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