「考えて、考え手」拾遺

(木戸-ZのXアカウント(@kizukanakatta)にて、2024年1月20日~9月8日の間にポストした文のうち、「考えて、考え手」と関連のあるものを抜粋しました。)

2024/01/20
昨日、鋭利なヒトと話していて、考え手、という未知なる肩書きが話題となった。
「作り手」でも「書き手」でも「読み手」でもない、考え手。
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考え手、あまりまとまったものを残せないだろうから、つぶやきなど、小まめにやるのがいいのではないか。
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考え手、まず「話し手」になるところからクリエイティブになっていけるのかもしれない。
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考え手、しかし、「話し手」や「作り手」になっていくのではなくて、考え手、に留まることが大切なのかもしれない。むしろ、考え手、として深まるために、ひと時、「作り手」や「読み手」にもなるという。

2024/01/21
わたくし、つまりNobody賞、考え手に贈られる賞なのだろうな。
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保坂和志「考える練習」ライブ版
もう10年前か。
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キャッチボールについて考える時、その名と裏腹についつい球を投げるところをイメージしてしまう。投げるのではなくキャッチすることに力点を置いて、この遊戯について再考すると見え方の変わってくるところがあるのではないか。
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鋭利なヒトと考え手について話していた際、右に対する左のように、考え手と対置されるものがあるのではないかという話にもなった。その議論の中で浮上してきたのは、動き手。
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2022年の木戸善時朗のブログ、考え手感がある
「いずれ居なくなるとしても、ただ肉と酒に溺れて寝て食って暮らしていたのではなく、物や事に触れて、思い、考えていた。そのことは、自分たちのことを知らないし、想像することもない将来の誰かが考えることへと繋がっていく」

2024/01/24
短い間に境界知能についてのひどい言説に触れることが重なった。お粗末!
ハクスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』とともに斎藤環『思春期ポストモダン』の冒頭にある「若者論」の話を思い出す。相手を対話不可能な存在に仕立て上げて、自らの思考を停止するという
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斎藤環『思春期ポストモダン』冒頭は幻冬舎のホームページから立ち読みできる。

2024/01/27
連絡・報告の際、ちゃんとした文章より、矢印使ったり、箇条書きにした方が伝わる場合がある。このことは今後も留意していこうと思うが、それはそれとして、この「伝わりやすさ」から裏返って、文章の伝わりにくさをいかに活用していくか、考えられるものがあるのではないか。

2024/03/13
「大方は隅無く、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し。」
(「老子」より)
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「もともとの『老子』においては、この部分には別の語が書かれていたようです。一九七三年に発見された帛書『老子』を見ると、「大器晩成」ではなく「大器免成」となっています。「免成」とは「完成することを免れる」、つまり「大器は完成しない」という意味で、他の三つと同じ否定形になります。」
(蜂屋邦夫『100de名著「老子」』より)

2024/03/15
「人鶏犬の放たるること有らば、即ち之を求むるを知る。放心有りて求むることを知らず。学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ。」
(「孟子」より)

2024/04/07
東浩紀がYouTubeで喋ている。東浩紀、考え手として、一目おくところがあるな。

2024/04/20
新たに始めるのではなくして、途中からやることの可能性について考えている。

2024/04/29
「人生における救いとは、一つ一つのものを徹底的に見きわめ、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。」
(マルクス・アウレリウス『自省録』より)
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マルクス・アウレリウスの「自省録」、そこに書かれている内容というよりも、考えて、書いて、書いて、考えて、直面する困難を、言葉をもって乗り越えようとする人の姿が、読んでいるうちに浮かび上がって来る。この書物が私を鼓舞するのはそこのところだ。

2024/05/01
ずっと前に買ったホイジンガ『ホモ・ルーデンス』。いま読まないとこのままずっと読まないような気がして、先週、今週でがっと読んだ。読めてよかったけど、疲れた、やたらと時間がかかった。
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ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、一気に読んだけどちゃんと読めるのはこれからだろうと思う。 1章で「遊び」の定義し、その後、競技、詩、法、戦争、哲学、芸術などに言及する各論へと進む。最後の12章に至って「遊び」の本質から見出せる倫理的な態度が示されている。

2024/05/06
「おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ、……もしおれがまともに暮らしてきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキイにも、なれたかもしれないんだ。」
(チェーホフ「ワーニャ伯父さん」より)

2024/07/03
中島義道『晩年のカント』(講談社現代新書)にあるカントの略年表、二行目で四十代後半まで飛んで、三行目で五十代、その後、数々の活動が示されている。熱い年表だ。

2024/07/08
意味と無意味をめぐって。 意味の外部として無意味をとらえて「意味を支えるものしての無意味がある」「やがて意味あることと結びつくもののために無意味がある」という形で無意味に意味を見いだそうとするやり方は、無意味への不寛容というものではあるまいか。

2024/09/01
直面して考える、ということについて考えている。

2024/09/07
人が本気で頭を絞るのは直面している事柄について考える時ではないか、という実感に、考えなくてもいいことを考える考え手としてどんな球を投げ返せるか考えている。

2024/09/08
反対に直面していない事柄について本気で頭を絞ることで、自らの重心がずれていく、ということはあるのかもしれない。


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