諏訪考 物部氏の痕跡。
諏訪地方には(正確には、信州には、と言うべきだろうか)、物部守屋という人物の痕跡が、これでもかというほどに存在している。
教科書的に言えば、大和朝廷きっての軍事氏族として、仏教伝来をめぐって崇仏派の蘇我氏と対立し、丁未の乱(物部合戦)のすえに打ち取られた、物部氏の中心人物。
教科書の教える日本の歴史のスタート地点、ここから歴史の授業が始まるぞというその矢先、まっさきに滅亡が語られる氏族として、物部氏という名称は、否が応でも鮮明に記憶に残ってしまう。
なにものが滅んだのかも語られず、物部氏は、歴史の授業から忽然と姿を消してしまう。
この時代の蘇我氏サイドには、蘇我馬子、聖徳太子、秦河勝、大伴細入、刀自古郎女など、興味深い人物が目白押しなのであるが、そのなかにあってさえも、物部守屋の謎の存在感は突出していると言える。
諏訪大社・上社の祀っている御神体山の名称が、守屋山だということを知って以来、不思議な迷路にはまり込んでしまった自分がいる。
あの物部守屋が落ち延びて来た過去でもあるのかと、何の気なしに知人と話をしていたら、次から次へと物部守屋にまつわるものを見つけてしまう。
自分が何かとんでもない発見をしているかの錯覚に酔いしれて、そのアハ体験的なものが癖になってしまったようである。
諏訪という土地が、一体どんな秘密を隠しているのか、気になって、知りたくなって、今に至っている。
本宮の近くに鎮座している北斗神社には、祭主・物部安貞と刻み込まれた石灯籠が建っていて、なんの予備知識も持たずに行くと、とにかくびっくりさせられる。
諏訪大社を管轄する五官祝のひとつである、禰宜太夫・守屋家の守屋安貞という人物が、物部安貞と名乗りを変えて石灯籠に名前を刻んだらしいが、物部守屋の名前を分割し、守屋の方も物部の方も、ともに苗字として用いているというところに、一体どんな意味が隠されていたのであろうか。
信州を歩いていると、路傍に石仏や道祖神などを見かけることが多いけれども、その石像彫刻を担っている職業集団に、高遠石工というものがある。
守屋貞治という人物などが有名であるが、高遠石工は守屋姓を名乗っている。
石を扱う高遠石工が守屋姓なのも、ミシャグジ神を祀る信州の土地柄においては、どうにも、いわくありげに感じてしまう。
高遠と言えば、前宮から杖突峠を越えて高遠町へと向かう途上、守屋山の山麓に、そのものずばりの物部守屋神社が建っている。
国道沿いに面しているのは、物部守屋神社の里宮で、守屋山の山頂には物部守屋神社の奥宮があり、そこには石棒が祀られているということのようだ。
建御名方神が戦った、諏訪の土着民が祀っていたという神の名前も、守屋とよく似た響きのモレヤの神であるというところも、偶然の一致としては出来すぎている。
そんなモレヤの神を祀る役割の神長・守矢氏に、物部守屋の次男・武麿が養子入りしているという段にあっては、鶏が先か、卵が先か、時代関係がよくわからなくなって、まったくもって、ごちゃごちゃである。
かたや、北信地方にあっては、善光寺に伝わる絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来像が、物部守屋にまつわるものであるという伝承がある。
蘇我・物部の崇仏廃仏論争の折りに、物部守屋の手によって、難波の地にて廃棄されたその仏像であるという。
善光寺本堂、内陣の奥の方には、物部守屋の鎮魂のためか、はたまた物部守屋の怨霊を封じるためか、仏教を否定していた側であるはずの物部守屋の名を冠した、守屋柱と呼ばれる角柱が建てられている。
絶対秘仏の御本尊や、その御本尊を科野の地まで運んできた本田善光とその妻子・御三卿像と並ぶように、守屋柱が善光寺を支えている。
もはや、複雑怪奇すぎて、どこからどう手をつけていいものやら、お手上げのような感覚に襲われてしまう。
神道の代表格・諏訪大社と、浄土教系仏教の代表格・善光寺の両方に、物部守屋の名がちらついて見えてくる、このとてつもない不可思議。
善光寺縁起には、地獄に落ちた皇極天皇の説話も伝わっていて、乙巳の変で滅びた蘇我本宗家の怨念すらも匂わせているように感じてしまう。
善光寺については片手間には扱えないので、ここでは話題を諏訪の物部氏の話に戻すことにしよう。
そもそも、建御名方神の入諏以前に、諏訪の地に土着していたのは、物部氏系の信仰を持つ人々か、物部氏との交流を持っていた人々だったのではないか、という説に傾きつつある。
物部氏という氏族は、その存在をどう考えるかによって、古代史の見え方が変わってしまう、大きな謎を秘めた一族であると思う。
歴史について(特に、日本の古代史について)学びたいと思う人間は、それぞれが、思い思いに古代史のグランドデザインというものを、頭に思い描いているものであろう。
グランドデザインというものは、その人間のアイデンティティーを投影する部分でもあるので、めったなことでは変わることのないものであると思う。
けれども、物部氏をどう解釈するかによって、そのグランドデザイン自体を大きく組み替えなければ、話がまとまらない事態に陥ってしまうのだ。
物部氏の解釈が変わってしまえば、古代史の見え方が変わってしまう。
物部氏とははたして、大和朝廷勢力の古くからの忠臣なのか、河内の独立した勢力なのか、出雲の流れを汲む氏族なのか、縄文の民なのか、弥生の民なのか、はたまた、それらとはまったく路線の異なる異民族なのか。
そもそも、物部氏という一族が、蘇我氏との抗争によって滅んだのか、滅んではいないのかさえも、よくわからない。
物部氏の捉え方ひとつによって、古代史の見え方が劇的に変わってしまう。
物部守屋と守矢氏の、名前の響きが似ているのは一体どういうことなのだろう。そもそも、順番が逆だったのかもしれない。
物部守屋の名前が先だと考えるから、すべての話がこじれるのであって、守屋という名前があとなのだとすれば、すべてが丸く収まるはずだ。
建御名方神と戦ったとされるモレヤの神は、縄文の昔から、もともとモレヤの神であって、そのモレヤの神を祀る守矢氏と、物部氏の勢力は、建御名方神の入諏以前から、諏訪の土地で交流があったのではないかと考えた方がよさそうだ。
物部守屋の名は、むしろ、諏訪のモレヤ神と守矢氏の方が先にあって、それに、あやかって付けられた名前なのではないかと思う。
蘇我蝦夷の名が、奥羽の蝦夷に先立つなんて誰も思わないのに、物部守屋の名が、諏訪の守矢に先立つなんて思うからこんがらがるのだ。
物部麁鹿火の母の出自は、洲羽(諏訪)氏ということであるから、物部守屋の時代には、物部と諏訪は、かなり濃密な繋がりとなっていたように思われる。
ひょっとすると、諏訪土着の勢力と、物部氏の交流はさらに昔からあったものなのかもしれない。
建御名方神が、物部系の神である経津主神と、激しい戦闘を繰り広げているのは、経津主神こと物部氏が、建御名方神を追ってきたというよりは、物部氏の勢力圏に、建御名方神が入ったからなのではないかという気さえしている。
諏訪の土地で、物部氏の祖神が祀られていたとしたなら、それはやはり守屋山の周辺であろうか。
物部氏の祖神は、饒速日(ニギハヤヒ)命である。
この饒速日命とは、古史古伝の領域において、天照(アマテラス)神話創設以前の、男性太陽神という捉え方をされている、まことに興味深い神である。
女帝・持統天皇になぞらえる形で、アマテラスという女性太陽神が生み出され、記紀神話が形成されたという説がある。
記紀編纂時の権力者、持統天皇と藤原不比等らの思惑によって、日本の最高神は、女性太陽神にすり替えられてしまったのだという。
物部氏の祖神である饒速日命は、太陽神としての神格を剥奪され、歴史の闇の中に封印されてしまったのだとされている。
わたしはあまり古史古伝マニアというほどではないから、古史古伝に書かれていることを絶対視するつもりはないけれども、ありえないこともない、たいへん魅力的な説だと思う。
偽書などと言われることの多い古史古伝にも、かけらほどの真実ぐらいは認められてもおかしくはない。
古史古伝の領域とは言ってみても、民話などがそうであるように、なにがしかの真実が投影されていることも多いだろう。
それが、滅ぼされた氏族の怨念から書かれたものであるとするならば、その一抹の真実の主張のために偽書とされる古代文書は書かれ、命がけで残されたとも言えるはずだ。
そもそも古事記・日本書紀の側にも、疑わしきがないわけでもないので、記紀のみを正史として取り扱う姿勢もまたどうであろうかとも思うのである。
文字を持たない時代に向けて行なわれた歴史改竄は、文字による記録が一次資料とはなりえないから、まことに悩ましい問題であろう。
饒速日命こそ先史時代の太陽神だったという説の方が、わたしの思い描く古代日本のグランドデザインに適ってしまうので、なんとなく、わたしの軸足はそちらの方に傾いている。
モレヤ神を信仰対象とする諏訪土着の縄文系勢力は、物部氏との交易、あるいは入植を、前向きに受け入れていたのかもしれないと思う。
その交易によって、モレヤの民は、さなぎと呼ばれる鉄鐸を造る技術を手に入れていたものかもしれない。
その鉄の力をもって、モレヤの民は、建御名方神との戦いに臨んでいたのかもしれない。
モレヤ神は鉄の輪を手にして戦い、建御名方神は藤の蔓を手にして戦ったとやらで、このあたりも、手にした武具による勝敗の行方が逆のように見えて、諸説紛々たる様相を呈しているようだ。
個人的には、モレヤ神の手にしたものは鉄の鑰(=鉤)、諏訪大社の神事に残る薙鎌(なぎがま)のようなもの、建御名方神の手にしたものは、藤蔓によって巻き締められた梓弓だったと考えたい。
諏訪土着の勢力と物部氏との交流は、伊那谷に拠点を持っていた阿智氏を介して行われていただろうか。
阿智氏の祖神とされる八意思兼(ヤゴコロオモイカネ)命は、饒速日命とともに降臨したとの伝説も残っていて、阿智氏という氏族も、なかなかの謎を秘めた一族であると思われる。
前宮から杖突峠を越えて高遠へ抜けたあたり、守屋山の南麓に物部守屋神社が鎮座しているのも、諏訪湖畔ではなくて高遠側、阿智氏の拠点のある伊那谷の側に、物部氏の主たる勢力圏があったからであるのかもしれない。
そのような物部氏と守矢一族の、古代からの良好な関係性があったればこそ、丁未の乱の敗残者として落ち延びてきた物部守屋の次男・武麿を匿い、養子として迎え入れることが出来たのであろうと思うのである。