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ルールとは、自分の自由を差し出して、相手の自由を受け取る行為である

(「学問としての教育学」の読書感想文として)

うちの子の大変素晴らしい資質として、「自分で決めたことを守ることができる」ということがあります。親として、心から誇らしいと感じる資質です。
お友達の家に遊びに行くとき、「夕方の音楽が鳴ったら帰ってくる」と言ってでかけた際には、たとえお友達の家で遊びの途中だったとしてもきっちり切り上げて帰ってきます。

親である僕自身は自分で決めたことを全然守ることができなくって、なんで彼にそれができるんだろうと不思議でなりませんが、自分で決めたことを守ることの延長として「家族で決めたことを守る」こともできる彼は、二年前にnintendo switchを手に入れたときに、「ゲームは一日一時間までにしよう」というルールを守り続けています。このルールは、家族で相談して決めたゲームを遊ぶためのルールです。

※そもそもこのルールに賛否があるかもしれませんが、ゲームそのものがいいとか悪いとかいう論点ではなく、子どもたちに遊びの多様性を持ってほしいな、という思いからこのルールで運用しており、いまのところは不満は出てきていない状況です。

そんな彼が、あるとき「ゲームは18時までにするって決めようと思う」と言い出しました。
より限定的なルールの制定の提案です。

「あんまり夜遅くまでゲームをするのはよくないから」というのが彼の考えたことのようでした。
実際には、ゲームが大好きすぎるので、朝のうちにゲームをしてしまうから、18時まで自分の一時間の枠が残っていることはほとんどなくて、18時を過ぎてゲームをするという状況になることもなかったのですが。

そこで、ちょっと待て、と思ってこんな話をしました。

ルールは自分の自由が大きくなるように決めるのが大事だよ。ゲームは一日一時間、というルールを決めて、時間は限られたけど、その一時間をどう使おうが、どんなゲームをして過ごそうが、父ちゃんは何も言わないでしょ?
ルールの内側では君は自由なんだ。

18時までしかゲームをしない、というのは、君の自由を大きくするルールになってる?それを自分から提案するのは、君の自由のためになっているの?

だけど、自分の決めたルールによって、誰かの自由が小さくなっていることも忘れちゃいけないよ。さっきの話の反対で、たとえば、父ちゃんは君がどのゲームをしなきゃいけない、って決める自由はなくなっているよね。

18時より遅くゲームをすることが、父ちゃんたちの自由を小さくしていることなら、父ちゃんたちからルールの変更をお願いするかもしれないけど、今はその必要はないんじゃないかな。

この話で、彼の理解は得られたらしく、18時以降ゲーム禁止のルールは制定されずに終わりました。

Eテレのおかあさんといっしょの放送時間が2022年4月から18時に変わるように、18時以降は、親としては夕飯の準備に忙しくて子どもと遊ぶ手もなく、ゲームをして過ごしてほしいこともありうるわけで、そんな中、わざわざお互いの制約を強めるようなルールは困るだろう、と思ったのですが、我ながらよく説明したよね、と思っていました。

ルールの被適用者はルールの範囲においては、自由に振る舞うことが許されます。けれど、その自由に振る舞う範囲が極端に小さすぎれば、被適用者は不満を持つでしょう。しかし自由に振る舞う範囲が広すぎれば、ルールの制定者の自由が阻害されて、ルールの意味がなくなってしまいます。

※ここで言っているルールは、「CODE (VERSION 2.0)」でLAWRENCE LESSIGが規制の4様式として挙げている「法律」「規範」「市場」「コード」のどれでも置き換え可能と思います。
(長大すぎて流し読みしかしていないのに引用していることを正直にここに告白しておきます)

なんでこの話をしたかというと、最近知人が紹介していて読んだ本に、「自由の相互承認」というフレーズが登場し、「これまさに子どもと話してたやつやん!」となったからでした。

本書は、現象学の観点から、「よい教育」をそもそもどのように論じたらいいのか、という枠組みから整理していき、次のような指針を提案しています。

公教育の本質を次のように定式化しておこう。すなわち、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」

現象学ってなんだ?なぜ自由なんだ?自由の相互承認??というのを、整理し尽くす力量がいまの僕にはないので、一旦この引用にとどめておきます。

正直、学校の教師をしているわけではない僕にとって、「教育学」というのは縁遠いな・・・と感じていたのですが、知人から「保護者は教育の最前線では?」と指摘され、本当にそのとおりだな、と思って本書を手にとってみたところ、自分が子どもに伝えていたことの理論的な裏付けがしっかり書かれてあって、大変驚いたのでした。

かねてから何故か僕の心を捉えてしまう、実在主義と構築主義の対立にも踏み込んで、「科学とは何か」を整理してくれているのも興味を惹かれています。現象学をもう少し勉強してみる。

そして、自由と自由の相互承認が社会にとって重要なものだとしたら、それって教育だけがその実現の重責を担うべきとも思えず、企業経営でもそこに寄与できることってあるはずだよな、と感じているのでそのあたりももう少し考えてみようと思います。

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