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ぼくとラグジュアリーとの距離感

安西さん、中野さんの「新ラグジュアリー」を読んだのは発売されてすぐの頃でした。
ラグジュアリーについて、明解な説明と、豊富な事例、意志のある展望が書かれた本ですが、これを自分のものに咀嚼するのに時間がかかっていました。

僕自身が、ラグジュアリーと呼ばれるものは何も持っていなくて、仮にラグジュアリーを狭義に歪んで解釈して「高価な物」と考えたところで、HHKBのキーボードくらいしか持ってない、という僕にとって、実感を持って「ラグジュアリー論」を捉えるというのは雲を掴むような感覚があったのでした。
(なお、HHKBは最高です。)

しかし、第三章で、「ラグジュアリーとは崇高」と説明されているのを読んで、これは自分が理解した方がいい、すごく大事な概念だ、と感じていました。

私なりに解釈すると、「崇高」とは次のような感性です。

計り知れない強大さと抵抗不能な威力を誇示する対象を前にして、畏怖の念を覚え、自分を含めた人間の弱小さを悟り、それでも恐れや不安を乗り越えて圧倒的歓喜に至る感覚。大きな力に飲み込まれそうだけど、内なる想像力によって苦痛や恐怖に抵抗し、その抑圧から解放されたあとに感じる高揚感のような歓喜。
新・ラグジュアリー p.105から引用

そこで、もう少し手がかりを得るにはブランドの提供者側の話をストーリーで読んでみるといいかも、と考えて、僕が暮らしの中で触れ得るプロダクトにまつわる3冊の本を読んでみました。

ミナペルホネン創業者の皆川明さんの「生きる はたらく つくる」。
スノーピーク山井梨沙さんの「経営は、焚き火のように」。
そして、原研哉さんの「低空飛行」。
(あまり意識していなかったですが、3人ともデザイナーかつ経営者。)

それぞれにいい本だったのですが、この3冊の本から共通して僕が感じとったのは、大きく2つです。
①膨大かつ良質なインプットがブランドやご本人を支えている
そして、
②ご自分やブランドのルーツに自覚的であることの大切さ

皆川さんが学生時代にヨーロッパで美術館に足繁く通われたエピソードは印象的です。
山井さんは幼少期からキャンプが日常のものでした。
原さんは日本のみならず世界各地を旅されることで各地の歴史や文化に浸りながらホテルにまつわるインプットを蓄積されています。

そして、それぞれのインプットを意識してそれをベースにしながらブランドを作っている自負がある。と感じたのでした。

そして、これは「ラグジュアリーとは崇高」という整理に照らせば、下記のようになると思います。

崇高さが発露されたブランドがラグジュアリー足り得る。
そして、崇高さを身につけるのは一朝一夕では到達できるものではない。

もう少し別の言葉にかえてみると、
自分が何者であるか、ということ。
何者である、ということを表現するにあたって、説得力を持たせる方法として、ルーツへの自覚と表現がある。
ということなのかな、と思いました。

そういえば、これは、「美」について考えた時に、コンテクストの重要性に思い至ったのと、似たような感覚でした。

このように整理してみると、「ラグジュアリーブランド」はともかくとして、「ラグジュアリー」と、自分の距離感はこれまでよりも身近、というか、自分が語ったり目指してもいいものなのかもしれないな、と感じられてきて、このnoteを書いたのでした。

それにしたって僕自身が蓄積してきたインプットは圧倒的に自然科学に偏っているので、慌てて、子どもたちに付き合ってもらって、週末に美術館に行ったりしてみているのでした。

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