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傷ついた心はトンカチでは治らないし、電車の故障は抱きしめても治らない

私は会社の経営者であり、ファシリテーションを生業とする者です。

チームづくりや会議進行を「特技」としてやりはじめて15年ほど、生業として5年目になります。数々の現場での手応えと違和感を重ねた今、人の育ちやグループをリードしていく仕事、つまりは、支援や教育に関わる方と、一緒に考えてみたいことがあります。それはこうです。

長期的に組織の自律や内発性を育もうとした時、社会で起こるべき変化が起きるようにしようとする時、私たちはこのままの「指導」や「ファシリテーション」を続けていいのだろうか?

議論だけ投げかけて、どうするかを言わないのはしょぼいので、最後にピンと来た方とご一緒したい「ホスティング/複雑系ファシリテーション」というスキルを学ぶ公開講座、別の言い方をすれば、大人向け探究学習プロジェクトのご案内もしています。ぜひ駆け込んでください。

このままワークショップとファリシテーションを続けていいか

私は、学校の探究学習、政策形成に向けた地域の話し合い、企業における人材開発プロセスにてファシリテーション、ワークショップの手法を活用しますが、こんな様子が散見されます。

  • 発言したくないのに指名されたら何か言わなくてはいけない(特に、ランクが高い人にに褒められることを)

  • 誰かが発表をしたら必ず拍手。

  • すでに問題も答えも用意されている 

  • 楽しくないのに笑わないといけない(経営者や、講師が喜ぶように)

  • まとまっていない議論が、グラフィックレコーディングされたらまとまっている

まあ私たちはオトナなので、無理に「出る杭」にならずに、その場しのぎでこうしたことをやることもあります。

しかし、こういうふるまいが、染み付いて個人の習慣、組織の文化になっている姿をよく見ます。肌感覚ですが、こうした事例は増えて、この「症状」が出る年齢が下がっているとも感じます(7、8年前は高校生くらいから。今は小学生もやります)。

ある種の時代の要請なのだろかと思います。学校や大学の先生からしても、企業の管理職からしても、「なんだかわからないけどワークショップをやれと言われたから、やらなくちゃいけない感じになってる」という正直な声も聞こえます。

ただ、もしそうだとしたら、まさにファシリテーションやグラフィックなどワークショップの手法は、それらが当初解こうとした問題の一部になりつつあるのではないかと感じます。

つまり、それらはひとりひとりの声を抑え、問題の本質を隠すことで起きるべき変化を抑制し、人と人の信頼関係を壊す仕組みになっているのではないか。

いいとか悪いとかを超えて

そんな感じで、ピリッとしたことを言い始めている感じになっちゃっていますが、悪しからず。というのも、私は、何かの手法が常に悪いとか、何かの手法が常に別のものより優れているとかを、ここで言いたいわけでもありません

でも確かに、なにかがおかしいくないか。もしあなたもそう思うなら、今、一緒にちょっと立ち止まって、考えてみれないでしょうか。

あと、そもそも私は楽観的な人間です。ゆえに、気づく人が気づいて、力を合わせれば、もっと生き心地のいい社会、もっとはたらき心地のいい組織は私たちの力で増やせるはずだと言う希望に満ち溢れています。

もし一つ一つは小さなタネだったとしても、みんなのを集めたら、新しい未来を育む森になるのではないか。ルソーは「自然へ帰れ!」と言いましたが、私は「みんなで"森"になろう!」と叫んでみたい。

そのためのお話でもう少しその背景や事例について興味が湧いたら、この先に進んでください。

傷ついた心はトンカチでは治らないし、電車の故障は抱きしめても治らない

もし私たちが壊れた機械の修理や、プラモデルを組むことを目的としてワークショップをする場合、それは素早く効率的に座回しをして、決まった答えへ促進することが役に立ちます。最適解に向かって、すでにそれを解いたことがある専門家が教えていくと言うスタイルは合理的です。(というか課題解決を委託してもいい)。

しかし、それによって人々を「指示待ち」「ファシリテートされ待ち」にさせてしまうことがあります。私が高校や大学で授業をすると、あるいは企業においても、いかにも「先生や上司が何を期待しているかを、当てにいく」技が鍛えられている人たちに、よく会います

小学校で授業をすれば、全体共有の時間で10人が発言すると、だんだんと集団が、1つの結論へ向かって帰結していくことがしょっちゅうあります。たとえば、一人目二人目は、「いつもと違うことを話せて楽しかった」くらいから始まり、3人目で「異なる視点の意見が聞けると、新しい気づきがあります」と言ったとします。それに対して、先生が好意的なリアクションをすると、それ以降の発表者がだんだんと「私もそうです」みたいになっていくことが多いのです。それが私には異様に感じられることがあります。

与えられた問題は解けるが、そもそもどんな問題が自分にとって解く価値のあることなのか。それを考える自力を長期的に奪ってしまうことが、いわゆワークショップやファシリテーションの影の部分であり、負の外部性としてしばしば起こります

それは、特定の果実の収穫を急ぐあまり、土壌が痩せていくことに似ています。あるいは、本来、機械の修理のための道具であるトンカチやドリルという道具を、人間、その心、コミュニティに対して使ってしまっているようだとも言えます。

いのちを扱う手法や道具を学ぼう

もし私たちが、いのちある存在を育みたいなら、私たちは機械を治す道具、つまり、対象を指示・管理するやり方とは全く異なる競技をプレーしなくてはなりません。

私たちがいのちを扱うなら、いのちを扱うための道具や手法が必要です。対象が持っている性質に対して、適切にはたらきかけたいのです。

その時、ファシリテーションやワークショップは、人々が未知や困難にあっても「自分たちならやれる」という自信、「声をあげれば社会は変えられるという」信頼、そして、いきいきと自ら動き出す柔軟なつながりを育てるための仕組みになります。実際にできます。

この議論を賢く進める前提には、いくつかのことがあります。しばしば私は最適解と納得解、煩雑系と複雑系の話をしますが、今日は機械論と生命論と言われるものを知りたいと思います。

機械論と生命論

社会の多くの私たちがしばしば知る教育・支援・ファシリテーションなどは、機械論的組織論(メカニカル・システム)と言われる思想に基づいています。それは、人と組織を「機械のようなもの」と捉えて扱う思想です。

  • 外部からの命令で操作できる

  • 上から下へと一方的に指示が流れる

  • 違いはエラーである

  • 個々の部分を調べると全体が理解できる

一方で、生命論的組織論(リビング・システム)として人と組織を捉える見方もあります。

  • コントロールできない、勝手につながる

  • 双方向に影響しあって、常に変化している

  • 違いはパワーである

  • 全体は部分の足し算を超えたものである

そのどちらで見るかにとって、私たちの関わりは変わります。そもそも解くべき問題から変わるはずです。皆さんがこれまで会ってきた「先生」や「ファシリテーター」はどちらの立場から人々を見ていたでしょうか?

上記のうち、生命論の前提に基づく実践知が世界中から集められた体系、つまり、いのちを扱うための道具や手法が、私がこの10年弱稽古している「ホスティング」であり、「見守り」です。これはグローバルで実践されているものですが、日本ではまだ一般には多く知られていないスキルです。

もし概念的に知りたければ上記のウェブサイトをご覧ください。

ここでは説明するよりは、事例でお話をしてみます。(小学生との事例ですが、もし企業にお勤めの方は、職場のことを思い出しながらご覧ください)

実例|小学生との対話

2年前、とある公益事業において、小学生と対話の授業をした時のことです。

私は、ある女の子のことが気になっていました。彼女の目の動きです。彼女は、何かを手に取る時や、声を発する時、ちらりと周囲の大人たちの表情を伺うのです。その表情は、恐れと慎重さが入り混じったものに見えました。

そして彼女は、おそらく世間で言うところの「問題のなくいい子」でした。何か聞けば、必ず的確に答え、指示されたことを素直にこなします。しかし、何かを自分から提案したり、自ら行動を起こすことはほとんどありませんでした。

ある時、私は彼女に「好きな色のペンを取ってね」と声をかけました。彼女の小さな手がピクリと動きましたが、そのまま止まりました。

他の子たちが全てのペンを取り終えた後、彼女はゆっくりと残りの一本を手にしました。その仕草には、周囲への配慮ややさしさが感じられましたが、同時に何かが彼女を抑えつけているようにも思えました。

その後、他の子どもたちからも「あれやっていいですか?」「これ使ってもいいですか?」そういった質問がいくつか寄せられました。

そこで、私はその様子を見て、彼らと一緒にいくつかの『お約束』を決めることにしました。

「何かを使っていいか、やっていいかを聞かない。止められたら、そこで初めて考える。」

その新しいお約束がしばらくして機能し始めた頃、私は彼女がずっと触れずにいたホワイトボードに、ついに彼女の小さな手が伸びるのを見つけました。その瞬間、教室の端と端にいた私たちの目が合いました。

一瞬下を向いて、ふっと顔を上げたときの彼女は、はにかんだ笑顔でした。その表情は彼女の中で何かが解放されたかのように輝いていて、私は「その調子!どんどんやったれ」という気持ちを込めて、微笑み返しました。

彼女の行動は一変しました。彼女は羽が生えたように空間を飛び回り、ホワイトボードに堂々とアイデアを書き紙を貼り付け、それを仲間と一緒に使おうと呼びかけます。その後は、皆さんの想像のとおり。子どもたちの声が空間に響き、その発表は活力に満ちたものでした。

授業の後、彼女は私に小さく手を振り、また笑顔を見せました。その笑顔は、彼女が自分自身の力で大きな一歩を踏み出したことを教えてくれるものでした。

さて、このストーリーの中には、いくつかのホスティングの技法が含まれています。それをいくつ見つけることができたでしょうか。
あるいは、伝統的なファシリテーターであったらきっと違うアプローチをするであろうと言うところはいくつあったでしょうか。

「自然」の再生力

先日、公立学校で対話の授業を行った際も私はそれを感じました。こどもの心の声(それは私たち大人の中にもある声)は、仕組みや規範の中でつい抑えつけられ締め付けられがちです。

先生もこどもも保護者も、全員がひとりひとりは「よかれ」と動いています。しかし、お互いの心に影を落としています。その時、人間関係はルソーの言ったような「鉄の鎖」のようで、それに繋がれた人々の言葉や振る舞いに触れると、私は胸が潰れるような気持ちになります。

しかし、それと同時にそんな私の憂いなんか「なんのその」ってことも多くあります。人々は関わり方次第で、その魂の躍動は息を吹き返します。そうやって内なる自然が蘇る素早さと美しさに、私はいつも驚かされます。

特に、こどもが野生を取り戻す速さと力強さは尋常ではありません。少しのはたらきかけでも、地球や自然が驚くべきやり方で自己を再生していく姿に似ていると感じました。(場合によりますが、大学生以上は、もうちょっと時間がかかりますね)。

こうしたことが、一定の修練を積めば再現可能であると言う体験が、私が現場に対して危惧をしながらも、全く楽観的で希望を持っている、そして活動を続けるエネルギーになっています。

ひとりで解決策はつくれないが、解決策の一部になることはできる

今の多くの教育、支援、組織の仕組みは機械論に基づいています。その中で生命論的なアプローチは、違反行為とみなされることがあります。

たとえば、あなたの目の前で、あなたにとっては間違った動きをしているグループがいます。その様子を見守ることは、「人間が失敗から共に学ぶチャンスを与えること」と捉えられるかもしれません。しかし、多くのマネジメントシステムの中では、「それは無責任な行為だ、すぐに介入して止めるべきだ」といわれることがあります。

このため急にひとりで、教育や支援の制度、ファシリテーションやワークショップの仕組みや規範まで、急に変えていくことはできないかもしれません。でも、「こうありたい」と思う未来の一部に、今なり始めることはできます。

また、仮に見守りができる環境において、それをあなたが頭で知っていても、それを実践するのは難しいものです。自転車の乗り方を知識として知ることと、実際に乗れることは違います。

それに、上手なホストほど、事前の準備は大量にあるが、本番になってしまえば見た目には「なにもやっていない人」に見えます。あなたのワークショップの後ろでランクの高い"評価者"が腕を組んで見ていた時を想像してください。あなたは、こどもたちが自分のタイミングで学ぶ邪魔をしないで居続けられるでしょうか。

それをできるかは個人と集団のスキルであり、その力を育むためにはそれなりの修練が必要です。

「みまもりのもり」で一緒に学びましょう

もしここまでの話にピンと来た方は、次の一歩を共に踏み出す場として、昨年度から開催している「みまもりのもり」にお招きします。

ホスティング/複雑系ファシリテーションを学ぶための場です。それがどのようなものなのかを、対話と体験を通じて、ゆっくり腹や心への内側から学んでいきます。

なお、連続オンライン講座としては、現時点では日本で唯一だと思います(対面の場としては、私が講師の一人を務める武蔵野大学サステナビリティ学科の授業)。主催は私が参画する一般社団法人サステナビリティ・ダイアログです。

このプロジェクトの社会的な目的

「参加者ひとりひとりにとって、どのような力をつけることができるか」については、別のブログで書いていますので、ぜひそちらをご覧ください。

この取り組みが、社会にとって、どのような意味があるか。その目的はこのように言うことができます。

自分や人をホストする仕事を
社会の新しいあたりまえとして根付かせるための
「器」となるつながりを育む

その学びが蓄積して循環していく器、それは「教室」ではなく「森」のように見えるわけですが(あるいは、ヨーグルトかぬか漬け)・・その根っこをみんなで学ぶ場所が、みまもりのもりです。ぜひご一緒しませんか。

今はまだ草の根といっていい活動ですが、今から私たちで力を合わせたら、10年後、日本の教育、政策決定や組織開発のプロセスがどんな「あたりまえ」で動いているのか、見てみたいと思います。さあどんな未来が待っているか。

最後に、ホスティングの実践知は、聞くたびに、心身の違うところに響きます。そのためにも、ご参加の際は、今あなたがご自身の現場で「なんとかしたい」と思っていること(シリアス・イシュー)を思い浮かべてご参加ください。

その時、みまもりのもりは、とっても楽しい大人の探究学習プロジェクトになると思います。ぜひ一緒に学びの冒険を楽しみましょう。

参加をご検討される方へ

無料相談会・説明会のご案内|2024年10月16日(水)
zoomにて開催します。今のあなたの悩みや想いのために、この講座がはまるかどうか。もしよかったら説明会へお越しください。動画でもそれに触れていただけます。

説明会への参加(無料)

さらに詳しく知りたくなった方へ

実際にどのようなことを学ぶのか。プログラム立ち上げのきっかけ、学びのコンテンツなどをこちらでご紹介しています。公式ウェブサイトでも詳しくご案内しています。

<みまもりのもり説明会2024.9.21>

<みまもりのもり実践者ストーリー・ラジオ版2024.10.4>

<★なぜ今「みまもりのもり」なのか(ラジオ切り抜き)>

開催日程【2024年秋コース(全6回)】

 ①10月18日(金)
 ②10月25日(金) 
 ③11月1日(金)
 ④11月15日(金) 
 ⑤12月20日(金)
 ⑥12月27日(金)

 ※時間はいずれも20:00 - 22:15頃予定   

さらに詳細・申し込みはこちら(公式WEB)
https://mimamorinomori.studio.site/

今年ご一緒できる皆様も、そうでない皆様も
ますます健やかに活躍されますようにお祈りしています。

また次の冒険でお会いしましょう!または「森」の中で。
ここまで読んでくださった方は、ありがとうございました。

【おまけ1】
札幌県域の方には、対面にて自分を/人をホストするための実践を育てていく器となるつながりが立ち上がりつつあります。ぜひご参加ください。

【おまけ2】
公共政策、地域づくりにおいて「指導から見守り」の議論をした寄稿文はコチラ。


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