マーヤ(サンスクリット語で幻想)という言葉があり、この世界はマーヤであるらしい
ヨガでは、マーヤという言葉があります(サンスクリット語。幻想という意味)。
この世の中は幻想の世界であり、神の世界から人は遊びに来ている、という思想です。神の世界から遊びに来ている世界、それがこの世界(幻想の世界)であるということです。
マーヤをテーマにした有名な映画が、あのマトリックスです。たぶん。マトリックスは仏教用語で胎蔵界のこと。胎蔵界は一種の宇宙観で、静的な宇宙観を表しているとか。まあ、その話は置いておきまして、マーヤの話しです。
マーヤで生きる目的は何か
「この世界はマーヤ(幻想)である」というのがヨガ(インド哲学)の教えです。では、マーヤで生きる目的は何でしょうか。
その目的は、遊び楽しむことであるとしてます。いわゆる、ただ遊んでいればいいということでの”遊ぶ”ではなくて、五感や六感、またはそれ以上の何かを観じて味わい尽くして生きることです。今起こっていることを味わい尽くしていくことがマーヤでの遊びなのです。それを少し表現を変えると”いまここ”という言い方にもなるかと思います。
瞬間瞬間に新しく生まれでる世界を味わい遊ぶことが、そのままヨガの実践になっていきます。
ヨガの先生でも「いまここ」ということを仰っている方もいますね。
遊び味わい尽くすことを”リーラ”と言います
この遊ぶこと、味わうことを”神の遊戯”といい、サンスクリット語でリーラといいます。目の前に起こる日常は、神のお遊びとして起こっているのです。大変なこともありますでしょうが、神である私たちが遊ぶ為に用意されているものである、と、ヨガ(ヒンズー教でも)では教えているのです。
ですが、私たちは、その遊び味わいつくすことを忘れて、自我に埋没していってしまいますね。それが幻想との同化です。大変なことがあれば、それが自分に起こっていることだと認識し、自分という自我を強くしていきます。どうにかして思い通りにならないかと試行錯誤します。
悲しいことでも、不安なことでも、嬉しいことでも、楽しいことでも同じです。
ヨガの教えでは、私たちが神であると説いています。ヨガの教えの中にクリシュナという神が出てきますが、クリシュナは私たち自身であると説いています。そして、悲しかったり楽しかったりして、幻想と同化している時、私たちは幻想世界に遊びに来ている神であることを忘れてしまっているんですね。
今、起こっていることを遊び味わえばいいのに、それを楽しめなくなったりしてしまいます。それが、リーラ(神の遊戯、遊び)であることを忘れた状態なのです。
何が起きても、一瞬で戻る
私たちは神であるという思想がマーヤ、リーラにはあります。なので、この幻想の世界、ゲームの世界から一瞬で神に戻ることができるのです。(そこが引き寄せの法則とも関連しています。)
楽しもうと躍起になる必要はありません。躍起になるということは、裏を返せば、この世界は思い通りにならない世界である、という神的視点から遠ざかることになるからです。
リーラ的に考えると(神が遊んでいるという思想から考えると)、なんとかしようと思う必要はありません。神本人が世界を創造しているのですからね、毎瞬毎瞬を。
「考えるな、感じろ」というブルース・リーの名言の通り、いまここで感じることができれば、この世界を遊び、踊り、味わうことができるのです。
その練習が瞑想であったりヨガであったり、禅であったりするのだと思います。実践の場が日常生活です。
禅語でも「脚下照顧」という言葉もありますね。
今にあることに目を向けて生きる、というのが大切に思います。
終わりに:マトリックス
はじめに少し触れましたが、マトリックスという映画はご存知でしょうか。イナバウワーのようなポーズで銃弾を避けるシーンが有名です。CMなどでもこのシーンをパロディしたものが沢山ありました。
このマトリックスという映画の中で、エージェントという存在が出てきます。マトリックスという幻想世界におけるエージェントは常に人を監視しています。映画の中では、このエージェントのスミスとの攻防がひとつの見せ場になっています。
このエージェント・スミスが、実は”自我”ということになります。スミスは自我の象徴として描かれているのです。だから、主人公のネオ(キアヌ・リーブス)は「スミスとは戦うな、逃げろ」というようなアドバイスをもらいます。とても象徴的なアドバイスです。
他にもたくさんの精神的な要素が含まれている映画ですので、再度、このような観点で観るのも面白いかもしれませんね。