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教員の仕事に関して

教員の仕事に関する真面目な話。

今の職場が深刻な人員不足である、という話は前にも書いた。ぼくが携わっている教育現場は特殊な環境で、自分たちの判断で教職員の求人・採用をすることができない。教員の採用を司る委員会があって、彼らが財政状況を考慮しながら、採用活動を行う。

先日、その委員会の方々と、現在の状況について面談を行った。
委員会は一般企業に勤める人たちで構成されており、教育に詳しい人はいない。
だから、イマイチ話が噛み合わなかったのだが、それはしょうがないこと。
面談の中で、「人員不足ということだが、今の業務量を洗い出すため、何の仕事にどのくらいの時間がかかったか、という記録をとってほしい」と言われ、「そうじゃないんだよな」と思ったので、今日はそのことについて書く。



教員の仕事は終わりがない。
その代わり、自分で「終わり」を設定することもできる。
今の職場は、公的な教育機関と私塾の中間のような組織であるため、特にその傾向が強い。

業務量を減らすための方法として、例えば、行事の規模を縮小したり、学級通信の発行頻度を下げたりといったことが実践可能だ。
だから、ぼくのスタンスとしては、「業務量は自分たちで調整ができるので、何が何でも人員を増やしてほしいわけではない。ただその分、切り捨てられるものが出てくるので、そのことを委員会の方から保護者に説明する機会を早急に設けてほしい」と考えているし、そう主張している。
厳しい財政状況の中でもう1人増やすよりは、そっちの方がよほど現実的で簡単だと思うのだが、なぜか取り合ってくれないのだ。



教員の仕事に終わりがない、ということに関する最大の事例は「教材研究」である。
つまり、教科書や指導書を読んで、授業を展開についての構想を練ることなのだが、これにどれだけの時間を要するかは教員の匙加減である。
小学校レベルの学習内容であれば、授業の直前に教科書を軽く眺めただけで、一応授業の体裁は整えることはできる。
その一方で、教材研究にいくらでも時間を割くこともできる。
単元についての理解をより深めたり、発問を工夫したり、プリントを用意したり、授業を充実させるためにできることは際限がない。
とはいえ、たった45分しかない授業の準備に毎回何時間もかけるのはナンセンスなので、結局、教員は「まあ、こんなもんでいいか」と適当に打ち切っている。

また、この教材研究で面白いのは、時間をかければかけるほど良い授業ができるとは限らないところだ。
もちろんある程度の準備は必要だが、準備しすぎたがために教員の自己満足で終わってしまうこともあるし、あまり準備していないのに子どもたちの食いつきが良かった、なんてこともある。
実際に授業をやってみないと分からない。



教員の業務量に明確な目安がないことの原因は、教育の究極的な目的が分からないことだと思う。
テストで良い点数を取ったり、より良い高校や大学に進学することは大切だが、それが全てではないことは誰もが賛同してくれるはずだ。
教育の究極的な目的に関して、当たり障りのない言い方をすれば、「人間性の涵養」「良い市民の育成」ということになるだろう。
しかし、「そもそも人間性(良い市民)とは何なのか」、「人間性の涵養についての到達度は可視化できるのか」、「人間性を涵養するにはどのような方策が効果的なのか」、「人間性が涵養されたと判断すべき時期はいつなのか」等、誰もが納得できるような明快な答えを用意できる人はいない。

だから、行事にせよ、教材研究にせよ、とりあえずやってみるしかないのだ。
児童生徒の成長に繋がると信じて、いろいろな手を打つしかないのである。
たとえ今は効果がなくても、数十年後にその経験が意味あるものになるかもしれない。
「あの時先生が言っていたことが、大人になってから理解できた」という経験がある人は多いと思う。
「その教育に効果があるのか」という問いの答え合わせは、今すぐにできることではない。人によっては、数十年のスパンを要するのだ。



……といったことは、大学生の時から何となく考えていたのだが、先の面談を通して改めて思考を深めた。
ぼくが一般企業の論理に無知であることと同様に、委員会のメンバーがこれらのことへの理解がないのはしょうがないことだ。
ただ、エリート駐在員が集まっているのだから、「財政状況や社会情勢の見通しをしっかりもって、現場が苦しくならないような組織運営くらいちゃんとやってほしい」と、この記事を書いててふと思った。

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