言葉にしていい、という安心感|津村記久子『ウエストウイング』
先日、久しぶりに近所の図書館に行った。
椅子など備品が全て撤去されており、日がな一日ここで過ごしているおっちゃんたちで溢れていた頃に比べると閑散としていたが、数人の常連と思われるおっちゃんが〈こどものほん〉コーナーの絨毯の上で新聞を読んでいる姿には、なにやら執念のようなものを感じてちょっと愉快だったのと、地域の多様な人にとっての大切な居場所としての図書館が普通に開いている日常への有り難みを感じるのだった。
ここで、おっちゃんたちのマナーが悪いと蔑むような感情をもつ人もいるのかもしれないし、目にも止まらない人もいるかもしれない。
ひとつの事柄に対する態度や反応は人それぞれだと思うが、わたしは図書館に吸い寄せられるおっちゃんたちがどうしてもチャーミングだと思ってしまう。
それは私がユニークなおっちゃんたちを日常的に目にし、関わる機会が多い環境で育った極めて下町寄り大阪人だからなのか(ちなみにうちの父も祖父も彷徨えるおっちゃん族だ)。
それともおっちゃんたちが自分とは関わりのない完全なる他人だからだろうか。
いつだって、こんな些細なことに対する出処不明の感情や、こみ上げるおかしみを持て余している。
そんなことを考えつつふらふらしていると、お気に入りの作家の棚から未読の本を発見。
津村記久子さんの『ウエストウイング』を借りた。
これまで多くの津村作品を読んできて、著者には強い親しみと憧れみたいなものを抱いている。
その魅力を私なりに端的に表現すると
①些細な感情を言葉にしてもらえる安心感
②個人と社会とのゆるやかなつながり
という感じ。
津村作品の登場人物は「働く」ということに少し疲れていたり、周囲と折り合いをつけることに四苦八苦しながらもなんとか自分を保ちながら生きている「普通の」人がほとんどだ。
社会の隙間に確かに存在する、取るに足りない人たちの取るに足りない日常、取るに足りない感情をこれでもかと描く。
今回読んだ『ウエストウイング』も、同じビル内で交錯する3人(OL、サラリーマン、小学生)の絶望するほどでもない「なんとなくしんどい」が、通奏低音のように流れており、その上に日常のちょっとした出来事や人との交流、細やかな変化が紡がれる。
序盤に
という一節があるが、まさにそれらひとつひとつを肯定も否定もせず、じっくりと観察し、見つめてくれる。
つながりそうな群像劇がなかなか簡単にはつながらず、あくまでも3人はお互いに通りすがりの人である。
それでも、知らぬ間に少しずつ影響し合い、最後にはふんわりと暖かなつながりが生まれている。
津村作品には、こんな自分にも手が届きそうだと思える、暖かくて小さくて、信頼できる何かがある。
それはたぶん、こんなに小さな感情を言葉にしてくれるんや、という安心感から来るようなものだと思う。
また、言葉にしてええんや、という勇気ももらえる。
それはなんてことない日常を送る私にとって大きな救いだ。