山伏の修行した山を登る -忍術的身体の使い方を考える-
「山伏の修行した山を登る -登山で気づいた感覚について-」の続編、第2弾です。今回は忍術的な登り方について、実際に自分が行った方法を元に書いていきます。
第1弾「山伏の修行した山を登る -登山で気づいた感覚について-」
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あくまで現代忍術研究としての登山方法ですので、正しい山登り方法(そんなのあるのか?知らんが笑)とは違うかもしれませんが、山登りする人は良かったら参考にしてみてください。
武術的な構えでの登山
山を登るとき、腰を少し落として歩くようにしましょう。そうすることで不安定な足場でも身体を安定させて登ることができます。険しいところを登るときに生まれる、身体の不必要な揺れも少なくすることができるのでエネルギー消費も少なくなります。
日本武術は基本腰を落とした状態で構えることが多いです。そうすることで重心が下がり、敵の攻撃を受けてもグラつかない身体になるからです。日本武術がこのような構えになったのには、日本列島には山が多く、起伏が激しい場所での戦闘を余儀なくされたからだと考えられます。
パルクール的な動きでの下山
登山は登りよりも下りるときに注意が必要です。登りによる疲労した足に、下りる動作による大きい負荷がるかかるので脚へのダメージが大きく、なおかつ滑った場合の対処が登りよりも行いづらい点があります。
足場が不安定な場所だったり、岩場の一段が高く大きく脚を踏み出して下りなければならない場合は、周りの岩や木に手をついて身体を支えながら下りましょう。片手でも両手でも、その場に応じて脚に負荷がかからないような下り方を考え、着地時にバランスを崩さないようにしましょう。
手をついて下りるのはパルクールのヴォルトという技の応用です。ヴォルトとは手をついて障害物を跳び越える動作のことです。下りるとき以外にも、登るときにももちろん使えます。ただ、登るときに多用するとエネルギー消費が激しくなるので気をつけてください。
忍術的な歩法での下山
また、忍者の行う歩法の抜き足・差し足も使えます。抜き足は足をしっかりと引き上げる動作。差し足は足のつま先を差し込むようにして踏み出す動作です。
抜き足を行うと、地面に転がっている岩などの障害物に足を取られる危険性が下がります。次に差し足を行うと、不安定な足場にそっと体を預けることができるので踏み外すことがなくなります。
忍術的な歩法を行うときは基本は、体重は後ろ足ぎみにかけること。前足を踏み出して、足場の安全確認ができたら体重を前足にずらし、次に後ろ足の抜き足動作を行います。
周囲を見る、行動を予測する、注意して登る、障害を排除する。
登山を行うときは周囲の確認も大事だと思います。忍者修行的にはした方がいいです。周囲の状況、足場・上下の傾斜・道・岩・木・周辺にいる鳥や動物・虫・人間・天気・時間など、言葉にすると難しそうですが、とりあえず周りを見て観察しましょう。
観察のポイントは自分が次の行動、つまり山登りを行うのに必要な情報を見ればいいと思います。自分の進むべき斜面を見て「次はこの道をこういうルートで登れば、上にある木の地点にたどり着けるだろうな…」という目的に対して「道のぬかるみはなさそう、でも木の根の起伏が激しいから足を取られそう。あそこの岩はぐらつきそうだな、でもあっちの木の枝は掴んで支えになるだろう…」という感じで予測を立てます。
注意しながらも予測通りに足を進め、予測外の障害が起きたら随時それを排除します。障害が発生したら、その問題に目を向けて観察し次の行動を立てて実行します。言葉にするとまあ難しそうですが「ダメだったから登りきるために新しい行動を取る」ということです。
忍術修行としては予測も大事ですが、障害が発生して「さあ、障害がやってきたぞ!どう解決してやろうか!」っていう臨機応変な対応の訓練の方が大事だと思います。マニュアルにとらわれず、周りにあるものを利用して難を乗り越える力を身につけましょう。
集中を保つために「六根清浄」を唱えてみると
さあて、一生懸命登ってるとやっぱり疲れてきます。「足が痛くなってきた、太ももが重い、息が荒れてきた、ああ集中できねえ…」そういう時は修験者が山登りを行うときに唱えるマントラのようなもの「六根清浄、六根清浄、懺悔、懺悔(ロッコンショウジョウ、サーンゲ)」を心の中でいいので繰り返し唱えてみましょう。不思議なことにこれがやってみると、唱えるのに集中して辛さが気にならなくなります。
ここで重要なのは六根清浄という文句ではなく、簡単な言葉を反復して唱えることに意識が向き、辛さが意識の外に抜けることです。なので文句は別になんでもいいと思います。座禅を行う人が、心の中で南無観音菩薩を唱えたり、瞑想を行う人がオームというマントラを唱えたりするのと同じだと考えられます。
ここで六根清浄について気づいたことを述べると、(六根清浄には自分の身の内にある悪い心や行いを払い清めてもらうという意味があります。)これは登っている時の身体的な辛さが、自分がしてきた悪い行いに対する罰ではないかと錯覚していることから生まれた宗教的呪文ではないかと考えられます。