きわダイアローグ04 芹沢高志×向井知子 5/6
5. 戦略を捨てる
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芹沢:最近、斎藤幸平 *1さんの『人新世の「資本論」』を読んでいるのですが、これがなかなか明快なんです。彼は、史上最年少でドイッチャー記念賞 *2 を獲っており、研究者として、かなり力を入れてマルクスの再評価を行なっています。マルクスは『資本論』を発表してからほとんど大著を出さないのですが、実は、農村コミュニティとエコロジーの勉強をものすごくしており、それに伴うノートや手紙がたくさんあったそうです。斎藤さんは、ほかの若い研究者たちとともに、マルクスの発表していない論文やノートをすべてアーカイブ化して、丹念に研究しているそうです。「資本主義のいちばん先端にいるのは西欧であり、非西欧世界は、ある種野蛮。それを西欧化することで生産性も上がり、無限に経済成長する。そうすると、人は必ずコミュニズム的な平等や精神的安定といったものを求めるようになる」。このようなことを述べたというマルクス像が一般的にはあります、しかし、膨大な研究を進めていくうちに、晩年のマルクスが、そういう直線的な進化観をなくしていたことがはっきりしたようなんです。
今、環境問題に関しても、いろんなアプローチが行なわれています。それが決して無意味だということではないですが、エコバッグやマイボトルをみんなが持てば環境が良くなる、エコに貢献していると思われていることについて、僕は、非常に危機感を持っています。「持続可能な経済成長」といったような言い方もそうです。結局、新技術をつくり出すたびにどれだけのエネルギーが必要なのか。先進国に関しては、どんどん環境負荷を下げています。しかし、それ以外の地域では労働者に対する完全な搾取と健康被害が起きています。そんなことを言い出したらきりがないという意見が大多数なのもわかりますが、非常に本質的な話だと思うんです。資本主義というのは、辺境から搾取して、中央が生き延びるというやり方です。資本主義はシステムなので、単純に誰それが悪いということではありません。システムが回っている以上、止められない。先述の斎藤さんは、無限の経済成長を前提にして組み立てられたいかなる対策も、トータルで見ると、地球環境を悪くするということを、さまざまなデータを使って解析しています。経済成長という戦略そのものを、とにかく捨てないとダメだと。資源、地球環境、未来、それから他者への搾取のうえでわれわれの社会がかろうじて成り立っているので、今手を打たないと自滅してしまうところまで来ているのではないかと、かなりの危機感をお書きになっています。つまり、資本主義を捨てなければならない、ギリギリのところまで来ている。生産量を増やして成長することが社会のため、全人類の幸福のためになるという幻想を捨てないといけないと言っているわけです。未来を変えるとしたら今なわけですし、グレタ・トゥーンベリのような若い世代が、おっかない顔をして発言するのも、彼女たちが生きていく時代だと考えれば当たり前なわけです。
向井:最近メノ・スヒルトハウゼン *3 というオランダの生物学者の『都市で進化する生物たち』を買ったのですが、偶然NHKでも特集されていたんですね。自分たちで社会を構築し、また、別の生き物からの影響を受けて、お互いに恩恵にあずかっているような関係を構築する生き物たちのことを、スヒルトハウゼンは「生体工学技術的生物」と呼んでいます。アリやビーバーもそうなのですが、最たるものが人類。自然環境や自然という話になると、どうしても wild の自然を観察したり、保護したりという話になりますが、実は都市ほど複雑な環境で、生き物に進化を促す場所というのはないそうなんです。番組では、都市に育った蛾は光に寄り付かないとか、住んでいる場所が違うと同じ種でも別の生態になるという話をされていました。生き物と人類を別物に考える人たちは多いですし、その他の生態系に影響を与える規模が大きいせいか「都市も自然である」という考えは外されがちです。しかし、「都市も自然である」と考えると、都市のなかの自然の観察や保護も必要ではないかと書かれていたんですね。今ある都市を壊すことはできないと思いますが、このなかにあるものの何がうまくいっているのか、何がまずいのか、人間を自然として捉え直す視点が重要なのだと思います。環境問題を扱う方々の勉強会では「里山に戻ろう」という話になりがちですが、わたしはそれも違うと思うんです。実際、ビオトープの方々に伺った際には、ビオトープに戻ってきたような絶滅危惧種は、自然の里山の田んぼでは農薬だらけで生きられないとおっしゃっていました。さまざまな地域で育てていくスモールビジネスなど、正しくはあるんでしょうし、これからの良い可能性もあると思いますが、一方的に自然回帰だけを提唱することだけでは解決しないのかなと思います。
芹沢:われわれの代表的なビオトープというか、自分たちがつくった都市の環境がまずくなったから、里山に戻ればいいという話ではないですよね。1965年、コ・エボリューションという概念が出てきました。今は「共進化」と訳すのが定着していますが、その頃は「相互進化」と言っていました。それまでは、ダーウィニズムのなかの単線的な進化観しかなかったように思います。日本語で進化を記述するときには「進む」という字を使いますが、「エボリューション」と言うと「転がっていく」イメージです。状況に合わせて、いろんなプレイヤーがないまぜになって、思わぬ方向に変わっていく。物理・化学的な環境にも、生物にも働きかけ、その変化がわれわれをまた変えていく、全部が反応と応答でユラユラユラユラと揺れ動いている世界。そこでは、これでなきゃいけないという固定的な考え方は成立しないはずなのに、どうしても固定して考えることが多くなってしまいました。何を持って「共進化」なのか。説明として、オオカバマダラの事例をお話しますね。このマダラチョウは、世代ごとに北米大陸と南米大陸を渡る不思議なチョウです。この幼虫は、ある種の植物がチョウの幼虫に食べられないために生成するアルカロイドに適応し、自分の体に溜め込むことができるんです。それによって、体内に毒を蓄積し、鳥から食べられにくくしています。すると、それを横で見ていた他の種類のチョウであるカバイチモンジセセリは、幼虫の模様や成虫の羽の模様、飛び方まで、そっくりオオカバマダラを真似するようになります。カバイチモンジセセリはアルカロイドを無害化できないけれど、鳥に襲われたくないので、オオカバマダラの擬態をしているわけです。僕が面白いなと思ったのは、さらにこのあとなのですが、マダラチョウに食べられる植物も、ただ食べられ続けるわけではなく、アルカロイドの組成を木ごとに変えていく。そうすることで、それを食べるマダラチョウも変化していく。するとその真似をするカバイチモンジセセリも変わっていく。さらに、鳥も、食べられる/食べられないを学習していきます。植物も、マダラチョウも、カバイチモンジセセリも、鳥も変わっていく。環境や他の生物を含めた全体のなかで揺れ動いて、変わって、世界はどんどん多様になっていくわけです。そういう、みんなが一体になって変わっていく姿を提案したのが、非常に重要な視点だと思うんですね。固定して考えるのではなくて、全部が揺らめいている。良い・悪いということ以前に、動いているのが世界の本質なんです。そのなかで、われわれがつくったビオトープとしての都市という環境が、他の生物たちにも影響を与えている。そしてわれわれもそこに働きかけて、変えていく。それによってまた、生息している他の生物たちも変わっていく。動きを止めてしまったら、世界はダメになってしまうのに、今、どんどん管理化して、何も起こらない、予測可能な世界をつくろうという方向に突き進んでいます。そこを改めないとまずいなと思います。さらに言えば、何かをつくり出す際、自分一人だけで直線的にヴィジョンや設計図を描いて構築していくということが、幻想であることは確かなんです。ここで言う自分というのは単体の自分だけでなくて、人類とかわれわれとかに置き換えてもいいのですが。
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*1 斎藤幸平
1987年生まれの哲学者。専門は経済思想、社会思想。著書『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』によって、権威あるドイッチャー記念賞を日本人初、歴代最年少で受賞。近著『人新世の「資本論」』は6万部を超えるベストセラーとなっている。
*2 ドイッチャー記念賞
正式名称は、アイザック・アンド・タマラ・ドイッチャー記念賞 (Isaac and Tamara Deutscher Memorial Prize)。1969年から続いている、毎年英語で刊行された「マルクス主義の伝統における最良かつ最もイノベーティブな新刊を代表するもの」に対して授与される賞。
*3 メノ・スヒルトハウゼン(Menno Schilthuizen、1965年〜)
オランダ出身の進化生物学者、生態学者。ナチュラリス生物多様性センターのリサーチ・サイエンティスト。オランダのライデン大学で教授も務める。ほかの著書として『ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか』など。
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