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ex②【ダーティ ハリー】デュー・プロセス「考えているな。弾が残っているかどうか。俺にも分からん。」

先日、『ex①【ヒッチャー】に見る犯罪心理とカリスマ性、承認欲求ついて考えてみた』と評して、誰しもが持つ、人間の弱さともいえる劣等感や、承認欲求からくる犯罪心理、カリスマ性についていろいろ考察してみた。

結論として、生まれ育った環境のちがいこそあれ、誰しもが、心の弱さや欲望などを抱えて生きている。そしてその弱さを克服した者、自身の弱さと闘い生きる術を身につけた者に何らかのカリスマ性を見出す者すら現れる。
ジェイソンやマイケルみたいなモンスターの類と同等の惨劇しか生み出さない存在でありながら‥
では、何故ホラーの殺人者として、何が人気なのか。

私が恐怖を感じる存在のいくつか特徴を列挙してみよう。
とりわけ霊的なものや、空飛ぶジョーズなどは省きます。実際にいたら貞子やテケテケのババアが怖いに決まってる。

テケテケ実際にいたら怖いと思うのに、映画は‥・。のぞき魔はセーフ。貞子より怖いゾ

私が恐怖と感じるいくつか特徴として まず、
「感情が無い。」 
「不死身」 これに尽きるだろう。
交渉の余地がない 何を考えているか分からない。
表情がない 見た目が怖い 出方が怖い。

謎ルールにより 貞子や空飛ぶジョーズはNG、ターミネーターやタールマンはギリ セーフです

感情移入の恐怖について考えてみよう。
もっとも感情が揺らぐのは、「恋愛感情」 これは間違いがない。その対象者を失えば、やる気スイッチが無くなる。そんなの、ただのホネ付きカルビだ。

人間とて反応の薄いものに対しては、だんだん声が震えるくらい 息が詰まる。私も先日 呼吸の仕方を忘れ 吸う量と吐く量が一致せず・・。
呼吸ってどうやるんだっけ・・? 
音の無いゲップが出てなおったんだけど‥


ここまで挙げたうえで並べたオードブルを引っ込める・・

この話は後日に持ち越しだ・・・


なぜなら先に片付けなければならない殺人犯スコルピオ問題があるからだ。

いや、「ダーティ・ハリー」の方だ‥ 




ダーティ・ハリーに登場する偏執狂的な殺人犯スコルピオ。

分かっていることはその社会で賞賛もされず、自らの尊厳を懸け権力を奪う闘いを起こしたような形跡もない。あれば当初より容疑者として警察の捜査に名があがるだろう。
汚い仕事専門だから、ダーティ・ハリーと呼ばれるのだが、相棒もたまったものじゃない。

犯行動機が「虚栄心 大胆極まる犯行と言われたいからだ。」刑事部長も読みが鋭い。

正面から社会に向けて戦いを挑み、その戦いに勝利することで自らの尊厳を保とうとするのであれば、英雄視される可能性もあるが、そうではなく、ひたすら社会を震えあがらせることで「復讐」する。
単なる身代金目的の誘拐犯というより、憎まれる事によって自分の存在を示そうとするストーカーのような存在であり、相手の憎しみや嫌悪の中に自分の存在を認めさせてやりたいみたいだ。
そのキッカケや復讐の形態や規模は様々だが、10才の少年にさえ毒牙にかけるほど腐りきっている。

そういった社会に生息する姑息なモンスターに対するは、大柄でガサツな皮肉屋で、人間嫌いのひねくれ者のはみ出し刑事が相応しい。
捜査の手段を選ぶ事は無く、時に暴力に訴える場合もある。
普通、刑事や警察といえば市民の平和維持などのため正義感に溢れ、規律正しく真面目、法令・法律を遵守するといった清廉潔白なイメージがある。

だが、実際にテキサスタワー乱射事件が起こったり、ゾディアック事件が未解決のまま恐怖のどん底にあったサンフランシスコ市民にあって、ハリーのような大柄でガサツでな刑事というのは、モンスターと対峙するのに頼もしい存在であったに違いないと思う。


「毒を持って毒を制す」という意味で 映画の中だけでもゾディアックを倒してくれる存在を熱望したのかもしれない。 
「ダーティ・ハリー」や 「フレンチ・コネクション」のポパイ刑事のような、はみだし刑事物が流行った背景には、社会的な不安が根強かったからではないだろうか。

繰り返される不毛な冷戦や戦争に懐疑的になった国民は、アメリカ政府の矛盾点に目を向け、若者のヒッピー化、反体制化が見られ、人種差別、ドラッグ、エスカレートした官憲の暴力性などの現象も顕在化した。
アメリカにおけるベトナム戦争や公民権運動、カウンターカルチャーなど、多くの社会的・政治的変動が起こっていたため、映画に反映された一種の時代の潮流であると思われる、いわゆる「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる作品群に対抗する、ベテラン職人監督たちによる古き良きアメリカとも言える西部劇風の気質の籠ったガンコさが溜まらない。

「考えているな・・弾が残っているかどうか。俺にも分からん。」
口径.44S&Wマグナム、6連発。
これはシリーズを通して、ハリー・キャラハン刑事の名セリフ&「発砲数」と「残弾」が合致した結果を迎え、論理的な演出がなされていることが窺える。 西部劇の「先に抜きな・・」の精神だ。

スコルピオは新聞広告の通信欄によって仕事の依頼を請ける事もあるようだが、無防備の若き女性や、10歳の少年を殺害するなどどう考えても社会の弱者をターゲットに己の欲望とねじれ曲がった承認欲求を満たしているだけの殺人者。
法律を遵守する精神を持ちながら、余りある正義感からか 法律を無視してしまい、犯人を起訴できず…のパターンもハリー・キャラハンならでは。
毎回、マドンナに惚れてフラれる寅次郎や、川に投げ込まれるマムシの兄弟のようにお約束化しているような気がする。

しかし、それでは無意味にスコルピオの犠牲者を増やしていき、その被害や損失によって人生をうばわれた人たちが浮かばれないではないか・・。

殺人鬼を目の前にして‥。

ソイツはいったん息を潜めて大人しくし、ホトボリが覚めた頃に間違いなく次の獲物を物色し街を徘徊するだろう。

そんなヤツを野放しにする、そこまでの建付けの悪い法律ならば、その法律が間違っているのではないのか?

と、お思いの方・・・

ひっかかったわね・・・。(^_-)-☆


そもそも、近代国家においては 日本であっても欧米諸国であっても各々の憲法や、法律というものがあり、その中身は各国の特有の事情などにより異なっている。
イギリスのように成文された憲法は存在せず法律のみの国もあるのだが、
その法律の根底にある基本概念などは独立した国家であれば、ほぼ全世界が共通した認識を持つようである。
(全く調べた訳ではないのだが、調べる必要もない。ワン・ワールド史観なので・・)

ダーティ・ハリーに戻す前に。まず、「刑法」Criminal Law アメリカ刑法、刑事訴訟手続(Criminal Procedure)について個別な条項については知りません。あくまで「日本と同じ概念」で続けます。

我が心の師(と勝手に思っている)故 小室直樹氏によると、

まず、刑法は殺人や窃盗などを禁じていません。ここが肝要な箇所でわかりにくいところですね。

日本の「刑法」には、
(殺人)第199条
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の拘禁刑に処する。」(窃盗)第235条
「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する。」
刑法第243条(未遂罪)未遂は、罰する。以下各細則 常習として左…

なるほど。どこにも、殺人や窃盗などを禁止するとは書いてない。
でも、死刑または…ってかいてあるが‥

「民法」であれば
(婚姻適齢)第731条 
「男は、18歳に、女は、16歳にならなければ、婚姻をすることができない。」
(重婚の禁止)第732条 
「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない。」

・・と、書かれており、男が16歳で結婚したり、複数の女性と結婚した日には民法の法律違反でトンデモない事になってしまう。
「~をすることができない。」という文面からもお分かりであろうが、
民法は国民全体が対象者として書かれています。

たしかに広島の一部の議員だけが重婚を許されているわけではないようだ。

一方、刑法には「〇〇した者は△△に処する。」という言い方で、「殺人をしてはいけない。」と言う書き方ではない。
〇〇した者を△△に処する事が出来るのは裁判官のみであり、結論から言いますが、「刑法」は裁判官のみが守らなければならない法律なのです。

例えば、消しゴムを盗んだ者に対して「死刑」であったり、
夫を殺害した奥さん ちょっとかわいいから懲役5日…。
‥とか、「打ち首獄門」など勝手に刑罰を作られても困るのだ。

ただし、結果として「刑法」に書かれれている罰が そのまま実行者に跳ね返ってきますから、脅し文句的に効いてはいると思います。


ハイハイ ^^; 分かってます。
どうせココまで読まずに飛ばしたでしょ。

今回は「刑法」自体が問題なのでなくて、その訴訟に至る前の段階がマズいのですから・・。以下も小室氏の言をお借りして咀嚼解釈します。
刑事事件の訴訟に関する検察官による「刑事訴訟法」
「ダーティ・ハリー」の場合、この刑事訴訟法に違反しているので起訴出来ない。
これでお分かりの通り「刑事訴訟法」は検察官ばかりでなく、行政府全体に(現場の警察官から、法務大臣や総理大臣まで)及ぶのであって、現場の刑事のハリー・キャラハンのような暴力を用いたり脅迫があったりしてはならないのである。

裁判は司法権なのに、行政府って‥って言われると…
だから、刑事裁判は真犯人は誰かや、被告が裁かれているなんて思っちゃうわけで‥。
まあ、答えだけ言いましょう。
あまり、この題目に触れる事例も多くないし。

裁判で裁かれているのは「検察官」で行政権力が裁かれています。
裁判官は司法権に属し、検察官は司法試験を受けながら行政権に属するのです。
その「行政権の代理人」として検察官が裁かれているのです。

昔の裁判では、真実の追及であったり下手人は誰か、真実の追及のために裁判が行われ、被告人の罪が問われたりしました。

昨今でもテレビドラマや映画で被告人の無実の証明の為に弁護人さんたちが奮闘するなどというものを見かける機会が多いので、つい「真実の追及を・・」と言ってしまいがちではあります。

裁判により、真実が白日の下に暴露されると思いこまされているようです。
近代の裁判は異なる。アメリカでは更に顕著のようだ。

極端なことを言ってしまえば「真実なんてどうでも良い」のです。

「事件の真相」とは、言いかえれば裁判に「客観的な真実」というものは存在しない。
仮に被告人が実際に犯行を行っていたとしても、弁護士に虚偽のアリバイを伝えるかも知れない。

あるのは検察官の言う「真実」と、被告弁護人の「真実」があり、裁判官は検察官の主張する「真実」を検討する。
その「真実」に少しでも法的な瑕瑾があったり、その立証が不完全であればその「真実」は否決されます。

いわば国家権力をもってすれば、どんな証拠だって出来てしまうし、拷問にかけてウソの自白させることなど簡単に出来る。

デュー・プロセス・オブ・ロー(英語: due process of law)または適正手続の保障とは、国家が個人に対し刑罰などの処分を与えるに際しては徹底的に法律に基づいて適正な手続を保障しなければならないという法の原則である。
国家は非常に強力なリバイアサン。強力な権力を持つから、それを縛るための憲法があって、またその権力から被告を守らなければならないのです。
そのため、疑わしきは罰せず。少しでも手続きに疑義があると「無罪放免」になる。
権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送り込まれることだけは避けなければならない。

       「復讐法廷」著者:ヘンリー・デンカー

若いアグネスという女性を強姦し、殺害したジョンソンという黒人が一人の老人に射殺される。老人は殺されたアグネスの父親だった。ジョンソンは一度は強姦殺人罪で逮捕されながら警察官の逮捕取り調べの手続きに違法があったとして裁判官の裁定で不起訴処分となり釈放されていたのだ。      
父親は娘の仇をうつため、何もしてくれぬ裁判所に代わって犯人を射殺したのであるが、同時に法の不合理を世論に訴えようとただちに自首し、有罪を覚悟で法廷に戦いを挑む。
ところが父親の犯した罪は第二級謀殺という重罪に当たり、動機は問題とされずに殺す意思があったかどうかが最大のポイントとなることから、法律的にはなはだ絶望的な状況に追い込まれる。


暴行の濡れ衣を着せられ謹慎処分中のハリー・キャラハン刑事。

スコルピオは国外逃亡を企て、生徒たちが乗ったスクールバスをジャックした。
バスの屋根に飛び乗ったハリー。

スコルピオはバスを捨て採石場に逃げ込み銃撃戦となる。

採石場を出て近くの池で釣りをしていた少年を人質に取ったスコルピオだったが、ハリーの撃った弾丸は少年をかすめてスコルピオの肩に命中。

ハリーはいよいよスコルピオを追い詰めた。

瞬時に「デュー・プロセス」が過ったであろう。
デュー・プロセスが大事なのはわかるが、スコルピオは紛いの無い殺人犯。コイツが無罪なんてありえない。

コイツはいったん息を潜めて大人しくし、ホトボリが覚めた頃に間違いなく次の獲物を物色し街を徘徊するだろう。

かつて「加害者にも人権はあるのだ」と諭され、「被害者の人権は誰が守るのか?」と怒りをあらわにしたハリー・キャラハン。

落とした銃に目をやるスコルピオ。

その、私刑による銃弾を受けるか、大人しく捕まって法の裁きをうけるかの最期の選択は犯人側にゆだねる。

「考えているな・・弾が残っているかどうか。 俺にも分からん。」

法と秩序の番人とも言える警察という組織の中の人間が、法を破って
「私刑」による鉄槌を下した瞬間だ。

そして、警察バッジを投げ棄てる。

「汚い仕事専門だから、ダーティ・ハリーと呼ばれる」

汚れた英雄か! 孤独の狼か!

(キャッチコピーより)

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先日、袴田巌さんの無罪が確定しました。袴田さんは逮捕から58年を経て、「死刑囚」の立場から解放されました。
刑事事件の訴訟に関する検察官による「刑事訴訟法」。

デュー・プロセス・オブ・ロー(英語: due process of law)または適正手続の保障とは、国家が個人に対し刑罰などの処分を与えるに際しては徹底的に法律に基づいて適正な手続を保障しなければならないという法の原則である。
国家は非常に強力なリバイアサン。強力な権力を持つから、それを縛るための憲法があって、またその権力から被告を守らなければならないのです。
そのため、疑わしきは罰せず。
少しでも手続きに疑義があると「無罪放免」になる。
権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送り込まれることだけは避けなければならない。

畝本検事総長が直接謝罪すべきだ。
ここまでお読みになってくれた方ならご理解いただけると思いますが、検事総長の談話がいかにズレているか‥・ 58年は長すぎる。
















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