祖父のことについて
前回の投稿で、詩を書くことが好きだった祖父の事を書き、祖父の詩を紹介しました。
祖父はこれ以外にも、多くの詩をこの世に残しています。
妻(私の祖母)や子ども(私の父)、私を含めた孫たちに向けた詩も中には多くありました。
孫たちそれぞれが産まれた日の事についての詩を読むと、自分が産まれてくることを、こんなにも喜んでくれ、特別に思ってくれていた人が、少なくとも一人はいるということを、感じることができます。
自分にとって、特別な存在となる新しい命が、この世に誕生した日に、世界がどのように見えるのか。そんなことを、祖父の詩は表現していました。
それは何とも言えないくらい美しいものです。
いま、純粋に思う事は、祖父ともっと文学作品について語りたかった、という事です。
そして、身内には見せたことがない私が書く文章を、ぜひ祖父にだけは読んで評価してほしかったと思います。
私には、4つ上の兄がいますが、彼もまた文章を書いていた時期がありました。(現在は地方の大学病院の研修医)
兄の書く文章もまた私は好きでした。兄妹であるからなおさら、兄の考えや価値観みたいなものが、自分の持っているものとひどく似ているように感じるのです。
私たちはほとんど顔が似ていない分(外を二人で歩いていると、恋人のようだとよく言われました。)、そういった価値観や、ものの見方みたいなものが、とても似ているように思うのです。
(この兄というのも非常に興味深く、このような場所で、文章として表現するにはいささか面白い人間であるので、別の機会に投稿したいです。)
これはあくまで私の想像ではありますが、きっと祖父は、兄の書く文章よりも、私が書く文章を好んでくれるような気がします。
祖父が、太宰治の『走れメロス』のパロディー作品を作り、幼い頃の私に、読み聞かせてくれたことをよく覚えています。
メロスは私の兄であり、私は、結婚を控えたその妹として、
メロスの竹馬の友であるセリヌンティウスは、兄と同い年のもう一人の孫(私の従兄にあたる人)でありました。
『走れメロス』という単語を耳にするたび、この事を思い出します。
この作品は、私にとって、特別なものとなりました。
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ!」 (『走れメロス』太宰治)
そしてまた、祖父はこのお話もよく読み聞かせてくれました。
ロシアの民話である『ゆきむすめ』という絵本です。
幼い頃の私は、まるでそれが本当の自分の物語なのではないか、と思っていました。(自分の名前がゆきだから。)
しかし、自分の体が、いつか溶けてなくなってしまうことを恐れることはありませんでした。
それよりも、”雪で作られ命を吹き込まれた、不思議な少女”という設定に、恍惚としました。
この物語の結末のように、少しの絶望の中に、”美なるもの”を見出してしまう癖があるのも、小さい頃から、このお話しを何度も読んでもらっていたからかもしれません。
祖父は、たいへんな大酒のみでした。(私も酒に強い女の子になりました。)
そしていつも大きな声で話しをしました。(それが嫌な時もありました。)
私を舐めるように可愛がってくれました。(実際によく舐められていました。)
じいじよ、あなたが愛した文学と私が愛する文学について、お酒を飲みながら語り合いたいものです。
そして、あなたが文章を書くことについて、どんな思いをもっていたのかについて、語ってくれないでしょうか。