そうなのだから そうらしい
今日もちょこっと散歩をしてみる。
出る前まではあれほどやれ身体が重いだのどこが痛いだの思っていたのに、重い腰を上げてお外に出て歩き始めてしまえさえすればアラ不思議。身体は軽くテクテク歩き出す。
これは今まで結構何回も経験してて、いざ始めてしまえばなーんて事ない。けれど始めるまでに何故かあれやこれやとやらない理由が頭を駆け巡る。なんじゃろね。随分前に療法士さんに「痛みがある時は無理して歩いちゃいけない」と言われた事がまだ残っているのかしら。
お散歩に関しては初めは身体の主張を尊重してたのだけど、無理ない範囲であれば歩いた方が楽になると分かってからは、様子見がてら出るようにしてる。なんやかんや頭が騒ぎ出したら「うんうん、そうだよね。でも歩いた方が楽になるって分かってるのだよ。」と言い聞かせて。だってそうなんだもの。
お天気よい日に歩く度に「お陽さまパワーは偉大だなあ」と感じる。太陽を全身に浴びるだけで、ホント元気が身体に戻ってくる。身体が喜んでるのが感じられる。身体も軽くなる。
途中で金ゴマを買う。今日出る理由にしてたもの。頭が騒いだら「だってゴマ買わないとね。」
別にゴマがなくてもたいして困らない。ただ、買ってるゴマは個人のお店で平日はなかなか寄れない。だからこういう時は思考の逆手を取って「今日行かないとね」と言い聞かせて、出かける理由にしてる。
無事金ゴマ手にして店のおばちゃんと話してたら衝撃の事実が。私が愛用して買っていたゴマは「生ゴマ」だったらしい。おばちゃんの「ちょっと炒ってね、少しだけすりつぶして瓶とか入れてね」の言葉で発覚。えーっ、おばちゃん今まで一回もそんな事言ってないやん!と、つい人のせいにしそうになるがちゃんとおばちゃんの炒り方説明聞いて。どーりで他のゴマとなんか違うなあと思ってたワケだ。うん、かれこれ1年くらい私は生ゴマを食べてたらしい。アホやなー。
ついでに知り合いの所に立ち寄り、すぐ帰るつもりが小一時間話しちゃった。
でもね、いつも「ちゃんとそーなってるんだなあ」と思う。
そこへはお届け物があって、別に届けるのはいつでも良かったのだけど、なんとなく「今日届けたいなあ」と思って行ったもの。でも色々話してたら、今日持って行って会うのがいいタイミングだったんだなーと感じて。
お互いにとって必要なことが必要なタイミングで動いてる。これ、今日お散歩しなきゃ成り立ってないし、「今日持っていきたいな」という想いを採用しなきゃ流れちゃうし「休みの日だから迷惑かも」とかの思いに乗ってしまえば実現しないし。
「なんとなく今日持っていきたい」というそれを優先させる。信じる。
日常のとってもとっても小さな一瞬の出来事だけど、今までずーっと見逃していた感覚はこういった中に隠れてるんだよなあと思う。だから拾う。小さな事だから違っていたって大したことにはならない。だから安心してドンドン拾う。ジブンの感覚に対する信用を深めてく。
そしていつも思う。
「ちゃんとジブンの感覚に耳を澄ませば、その時の最善でスルスルと流れてるんだよなー」と。
ジブンの本当の声は静かな中でしか聴こえない。外側のあれこれに奮闘して頑張って「自分」を造りあげてる中では聴こえてこない。
こう思われるかもとか、この人はこういう人だからとか、そういった「過去の記憶」でついつい自動反射で物を言い何かをしてる自分に気づくたび、「あ~、もうほんとーに肩書きとか要らん!」と思う。
この人の前での自分。この環境の中での自分。こういったケースの時の自分。ぜんぶ勝手に「こういう自分」と肩書きを着けて勝手に動いてる。日常の殆どをそれで過ごしてる。
ぜんぶ「過去の記憶」で動いてる。
要らん。そんなもん。
お陽さま浴びれば身体が喜ぶように、樹々が気持ち良さそうに輝いてるように、もともとの我々は奥深くではちゃんとわかってるし、輝いてる。輝きしかない。
身体の細胞は「昨日こうだったから」とか考えないし、樹々は「この季節だからこうしてー」とか考えない。ちゃんと「そうであるもの」の流れでただ現れている。
ちゃんとそうなっている。
どれだけ自分を信用できなくとも。
どれだけ自分を固持しようとしても。
ちゃんとそうなっちゃっている。
だから
そうである ということを
信用して
覚悟して
お任せするしかない。
たとえ「自分」が
どんなに騒ごうとも。
葉っぱはなんでこんなに綺麗なんだろう。
なんで順番に色が変わって行くんだろう。
なんでなんでと
つい思ってしまうけど
その「なんで」を取っ払って
キレイだな~
不思議だな~
で
愉しいモノゴトが
輝き出す
ステキなセカイ