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骨組みだけの海の家

晩夏光 骨組みだけの海の家きみは最期に見たいといふを

楠誓英『薄明穹』(短歌研究社)

5月の「さまよえる歌人の会」に参加したときに好きな歌として挙げた一首。

晩夏光……夏が振り絞るさいごの光の中に取り残されている、骨組みだけになってしまった海の家。営業を終えてからどれくらいの歳月が流れているのだろう。かつてそこに、どれだけの明るさと声が響いていたのだろう。
弱々しい光の中、そんな海の家を「最期に見たい」という「きみ」。
その「きみ」もまたもうじき終わる夏のように儚い存在に見える。
「きみ」の「最期」はそんなに遠くないのかもしれない。

名も顔もみな忘れはて草のなか茶碗のかけらも墓標となれり
生と死に惹かれ在ることの苦しさを春の嵐に鉄塔はたつ
抜かれたる骨格は高くかかげられ鯨の影を地面におとす

歌集に繰り返し暗示される「墓」のイメージ。
「骨組みだけの海の家」もまた「墓」だと考えるとき、「きみ」が見つめるものはみずからの墓であり、みずからの死後なのだろう。
「晩夏光」という初句の響きの中に、さびしく美しいワンシーンが浮かびあがる。

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

葛原妙子『葡萄木立』※引用は川野里子編『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房)より

キリストが臨終の際に口に含んだ「酸っぱいブドウ酒」は今でいう「ワインビネガー」のようなものらしい(先月の歌集勉強会で知った)。
このお酢の壜もまた「墓」に見えてくる。

わたしたちはたくさんの「墓」に囲まれて生活しているのかもしれない。

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