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オットセイでも飼はむ

青竹を踏みゐる父が顔あげてオットセイでも飼はむと言へり

『砂がこぼれて』大村陽子

この青竹踏みをしている父は病んでいる。
「肺胞の線維化」がすすむ難病にかかっていることがわかり、通院している。治療の見通しは、良くない。
青竹踏みは病気になる前からの習慣なのだろう。いつものようにせっせと踏む、いつもの風景。隣で主体は洗濯物でも畳んでいるのかもしれない。心が疲れてぼーっとテレビを見ているのかもしれない。
ふと顔をこちらに向けて父が言う。
「オットセイでも飼おうか」
なんでやねん、と主体はつっこんだだろうか。それとも「いいね」なんて応えただろうか。

オットセイはアシカの仲間。アシカよりは小さいらしい。
水族館などでショーをしたりもする、愛嬌があって知能の高い海獣だ。
オットセイを一般住宅で飼育するには、まずは大きなプールが必要だし、種類によって北に住んでいたり南に住んでいたりするらしいから、冷房や暖房のことも考えなければならない。餌は魚、タコ、エビなど。
すごくお金がかかりそうだ。

日常にオットセイがいる場面を想像してみる。
一緒にちゃぶ台を囲むオットセイ。
父と野球中継を見るオットセイ。
布団で川の字になるオットセイ。
町を散歩するオットセイ。
宅急便にサインするオットセイ。

想像で描くことしかできない、ありえない光景。
そして、父の病気が治ることもまたありえない光景のひとつなのだ。

オットセイを家で飼うことはできない。
父も本気でオットセイを飼おうとは思っていない。
父の病気が完治することは難しい。
父も、それはほとんどあきらめている。

「オットセイでも飼はむ」というありえなさの向こうに、本当のありえなさが見えたときの切ない絶句。大村の歌はいつも静かに緊迫している。

病む父が嚙み残したる薄切りのレモンの皮のやうな三日月

『砂がこぼれて』大村陽子


海に行く暇がないので海に関する?一首評を書いてみました。

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