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名作マンガが古典になる時 ~コンプラ的観点から~

 学校における古典教育がもうすぐオワコンになるのではないかという話を以下に書きました。

 学校で国語を教えている立場の人間として、「流行作」が「古典」になる瞬間に興味があります。国語教員はすでに古典になったものを教えているわけなのですが、テクストは一体いつ「古典になる」のか?? その瞬間を見届けた人っていないですよね。まあ「瞬間」なんてものはなくて徐々にそうなっていくわけなのだが…

 「古典文学」は既に古典と化したもの。

 でも、文学に比べてまだ歴史の浅い「マンガ」の世界なら、自分が愛したマンガたちが古典になっていく様を生きている間に見られるかもしれません。

 まあ広い意味で言えば田河水泡『のらくろ』だとか手塚治虫『新宝島』だとかはもう立派な「古典マンガ」と言えるのでしょう。こういった草創期のマンガはやはり後の時代に比べてテーマが浅かったり表現方法が今から見ると稚拙だったりで、令和のマンガ読みたちが楽しむためだけに読むのはキツくなっている部分もあるでしょうね。

 こういった表現のあり方以外にも古典になる要因はいくつかあると思うんだけど、代表的な要因に「作中の登場人物の価値観を共有できなくなる」というのがあるんじゃないかと思います。現代の高校生たちが『伊勢物語』や『源氏物語』を読んでもいまちピンとこないのは、言葉遣いの難しさ以外にも、当時の貴族たちの価値観が共有できないから、というのがあると思うんですよね。それが証拠に、現代語に訳されたものを読んでも、その意味がわからないと言って生徒が質問に来る、というのは古典を教えていてあるあるのパターン。

 冒頭に挙げたnoteでも述べたように、古典世界は現代から見ればコンプラ無視のオンパレードです。価値観の違いは明らか。

 話は変わるけれど、数年前に、「クイズダービー」という番組(1976~1992、TBS系列で放送)の過去動画をふとした時に見て、この番組はかなり幼いころに自分が意味もよくわからないなりに家族と見ていた懐かしの番組だったんだけど、その際に「これが時代の流れか…」と感じるワンシーンがありました。

クイズとクイズの合間に)

司会・大橋巨泉「景子ちゃんはまさかダンナにゴミ出しなんてさせてないよね」
解答者・竹下景子「いやあそんな…させてませんよ」

(正確には覚えていません、あくまでこんな「雰囲気」だったってことで)

 このやりとりは、直前で、「世の中では夫が妻にぞんざいな扱いを受けるようになってきた」ということにまつわるクイズ(おもしろ川柳の穴埋めか何かだったと思われる)が出題されたことを受けてのものです。

 巨泉さんはまさに「夫が家事、それもゴミ出しさせられるなんてもっての他だ」という時代の感覚を持った人だということがわかりますよね。現代のTVでこれを言ったらSNSが炎上して謝罪の一つもさせられそうです。

 「クイズダービー」そのものはその時改めて見ても面白いクイズ番組だと思ったのですが、そういうふとしたところのコンプラ的な意識が引っ掛かって視聴しにくい部分がある。古くさい考え方の私も令和を生きる立派な現代人なのであり、これが自分の子供時代からのおよそ40年近い時の流れの証なのだと感じました。番組の体裁そのものが古びるだけではなくて、出演者どうしの掛け合いについて行きにくくなるのも、「TV番組が古典になる」ということの一つのあり方でしょうか。

 さて、私が「おススメのマンガ」「名作マンガ」「面白いマンガ」についての話になった時に必ず思い浮かべる作品があります。

 小林まこと作の『柔道部物語』です。マジで名作です。

 この作品の魅力は語れば尽きないのですけれども、たとえば私は一時、何か非常に落ち込んだことがあった時には、「立ち直るために、柔道部物語全巻を読む」というのをマイルールにしていたほど、元気をくれる作品でもあります。

 この作品の中のシーンに、主人公たちが「セッキョー」を受ける場面がある。「セッキョー」というのは作中で先輩の柔道部員たちが主人公たち後輩に加える理不尽なしごき(技術向上に役立つわけでもなく、先輩が鬱憤を晴らすためにやっている部分がある)のことを指し、現実世界ではスポーツ界が長い時間をかけて撲滅していこうとしている内容のものだと思います。また、セッキョーを受ける柔道部の一方で、野球部の一年生たちは「アメフレ」と言って校庭をパンツ一丁で踊らされるという意味不明な儀式をさせられたりしています。

 この作品、こういうところが、笑えるんですよね。笑っちゃいけないのかもしれないんだが。

 令和の価値観で言えば、これらは先輩から後輩への理不尽ないじめになる。絶対に許されないという社会風潮だろう。当時の価値観でもそれは基本的には同じだ。ただ、「先輩から後輩へのしごき、世の中、そういうこともあるよね、きれいごとばかりじゃないよね」という空気があり、現在よりも黙認されやすい時代だったということは言えるかもしれません。

 『柔道部物語』の登場人物たちは皆根はいいヤツなので、そんな「セッキョー」をしている当人たち(主人公たちも学年が上がると後輩に対して「セッキョー」を行う。「部の伝統なのだ」として)も後輩にかわいそうなことをしているという意識がある。ある場面では「こんな時代おくれなことやっていたら部員が集まらないからお前たちはもうするな」的なことを後輩に言ったりもしている。全うな感覚である。そういう登場人物たちの気持ちが読み取れるからこそ「笑える」のかもしれない。描かれているのが悪人ばかりだったら、いくら私がおじさん世代でも、そのしごきのシーンには嫌悪感しか感じないでしょうしね。

 でも、今の若い世代はこれに「笑えない」かもしれないな、と思うんですよね。もし笑えたとしても、単に滑稽なことをしているから面白いのであって、私の世代のような、「こういった理不尽なしごきが部活動に存在することが黙認されていた時代の、自分は体験していなくても、どこか周りで聞いたことはあるような、絶妙にリアルなあるある」として笑うのは難しいでしょうね。それはクイズダービーを久しぶりに見た時の出演者の掛け合いに感じた私の違和感と同種のものではないでしょうか。

 こう考えると、令和のこの時代に、昭和の名作『柔道部物語』は既に古典化の第一歩を歩み出しているのだと感じます。世代を隔てた者どうしの価値観の齟齬が、始まっている。これが30年経ち、50年経ち、100年経ち、200年経ち、『柔道部物語』の古典化はさらに進んでいく。200年後、柔道というスポーツは生き残っているだろうか? もし柔道/JUDO という文化が失われていれば、あれほど私を熱狂させてくれた『柔道部物語』に共感できる未来人が存在する確率はいっそう低くなるだろう。さらに、この作品の中に描かれている「高校」だとか「合宿」だとか「インターハイ」だとか、一つ一つを取り上げれば200年後に残っていると確信できるものは多くない。そのように、共有できるもの、共有できる感覚がどんどん失われて行って、この作品の世界観は理解されにくくなる。「古典化」する。

 自分が慣れ親しんだマンガが古典と化していく、その第一歩は実は既に始まっているんですね。コンプラ意識の強化などにもその要因の一端がある。たとえば私はあだち充の作品なんかもよく読んできましたが、あだち氏の作品にも、「一見非常識そうでネグレクトにも見える親」とか、「サービスカットと称しての女性の水着姿」などがよく描かれることが、先の違和感を生み出す時代になってきているかもしれない。

 ということで、完全に古典となるまでにはまだ時間的猶予があるかもしれないが、言わば「風化」にも近い「古典化」を受容して行くのは、自分が若い頃に好きだったはやりの歌などが今の若い人に全く受け入れられなくなることなどとはまた異なる郷愁をもたらす感じがあります。

 数百年先の未来について考えたりすることっていい歳になってしまえばもうそんなにないけど、今自分が読んでいるこの作品が百年後二百年後にどうなってるか、って考えると、古代人が現代を見通そうとしているのに近い趣があって、何やら面白いです。もう自分がいなくなった後の世界のことを考える歳になってきているのかな。

 意外に、近い未来を考えるのが若者で、遠い未来を考えるのが中高年なのかもしれない、と思ったりもします。

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