男が生み出す女と男の共通語が欲しい(『ナミビアの砂漠』を観て)
「男の人はね、女の人に母親であり、妹であり、恋人であり、友人であり、 娼婦であって欲しいのよ・・・」
恋愛アドベンチャーゲーム『果てしなく青い、この空の下で…。』のヒロイン・八車文乃はそんなことを言うらしい。ファンの中では、男の気持ちを代弁している名台詞として知られているようだけど、私としては「男の人はね」というよりも「人間はね」と言った方が正しい気がしていた。というのも、そんなの私もそうだし、たぶんカナだって同じだから。
カナというのは映画『ナミビアの砂漠』の主人公のこと。彼女についてざっくり説明すると、今カレより好きな男が現れればあっさり乗り換え、男からどれだけ尽くされようが感謝せず、彼氏との間で思い通りにいかないことがあればすぐに暴力を振るう、そんなキャラクターである。ケア労働も賃労働も男にすべて押し付けるし、たとえそこまでしてあげたとしても男を自分の理解者とさせることすら許さないが、とてつもなく甘えたがりで、男がいなければ生きられない。まるで反抗期の女の子である。そんな彼女をスクリーン越しに観ながら私はこんなことを考えていたのだった。「カナって、男の人に父親であり、弟であり、恋人であり、友人であり、娼夫であって欲しいのよ・・・」。
本作は若い女が文乃のような理想の男を追い求める(が、現れない)物語なのかもしれない。で、SNSの感想などをみてみると、男性の意見はカナというキャラクターに意外にも肯定的で驚いたのだけど、もしかしたらそれはカナの欲望と自分の欲望を重ねているからかもしれない。1人の男に堂々と全ての役割を押し付けようとするカナの野蛮な振る舞いに、同じ欲望を持つがカナのようにはできない男性たちは彼女に羨望の眼差しを向けているのか……も……?
っていうのは斜に構えマンな私の意地悪であって、そんな男性がいるとはあまり思えないのだけれど(笑)。でもそう思わないとなんだか腑に落ちない。彼氏や旦那から理不尽な目に遭って復讐を決意する女たちの痛快ストーリーというものに何度も励まされてきた私みたいな人間からすると(え?男さんたちは同じことをされても許してくれちゃうんですか……?え?でも男がこんなことしてたら男さんたちは怒ってくれますよね……?)と若干気まずい気持ちになる。
実際のところカナが世の男性たちから肯定的に受け入れられている理由には、彼女が非常に魅力的な若い女性として描かれていることや、劇中で社会的立場の弱さが強調されていることが大きく影響している様子。若い女の刹那的な衝動、脆弱さ、バックグラウンドで許されているようにみえる。
彼らの反応をみていると、やっぱり女の性的な欲望を語るならばそこに理由を置いていかなければならないよなと思う。キリスト教的な性の価値観が根付いているからだろうか、世間は女の欲望に潔癖なところがある。「そういうもんだから」だけで済まそうとすれば、不潔とされて粗末に扱われるか、納得がいかないと怒られるか、ショックで泣かれてしまう。フェミニズムの時代に流石にもうそんなことはないだろうと思ったらそうでもない。表面的には理解があるようで、根底にはこの子ならOK、この子ならNGというのがハッキリとある。
たとえば、とある男性は一見純朴そうにみえる女性が「意中の男性の連絡にはハートマークを送って駆け引きしたりしちゃう」なんて話していたぐらいでショックを受けていたし、別の男性は私が「男の子だいすき!」なんてふざけてポストしただけでエアリプで批判して嫌がらせしてくるし、ある男性は自分から手を出しておきながら「誠実な女の子は付き合う前にそんなことはしない」と言い出したりする。その程度でそんな感じなので、自分の認めた女性がその日初めて会った男から部屋に誘われれば普通についていくタイプだと知った日にはとんでもなくショックを受ける。とにかくガッカリされて、責められるのは女の方である。だが、そこに同情できる理由さえ添えればどんな子でも大抵許される。
そういうわけで女の欲望を語るには大抵言い訳じみた理由が必要だが、そうして得たハンデによってようやく許される(時に許されすぎる)自由に、女の私としてはなんだか不自由を感じざるを得ない。まあ、昭和の名作には増村保造や中平康作品のようにただただ欲望のままに生きようとする女性も登場するけれど、それもまた男性作家が許可した上で成り立つ女の自由だし。どれだけ男の滑稽さに蹴りを入れて嘲笑いながら自分勝手に振る舞ってみせても、所詮は男の手の上に乗っかってギリギリ落ちない範囲でゆらゆら遊んでるにすぎない。
『ナミビアの砂漠』は新しい女性像を描いたといわれることもあるが、“経済的にも精神的にも不安定で男がいなければ生きられない女”の狭っ苦しい自由のどこに、新しい女性像なんてあるだろう。むしろ“いつも通り”だ。強いていうならば、これだけ社会や男に負けを認めているという点では新しいと言えるのかもしれないけれど。そうやって描くことでようやく、私たちは若さを振り回して奔放に生きる彼女を少し許すことができるのだ。私たちよりも生きづらそうで可哀想な存在として。カナはそれをすべて承知して、そんな世間に憤慨しながら、今日も男の手の上に乗っかって、その中で得られる最大限の自由を謳歌するだろう。なんて悲しい悲しい物語。なんだかやりきれない。もういちいち理由なんか描かなくても「女好きは俺らの悪い癖」と長渕バリにさっぱり言えばだいたいが帳消しにされるみたいな、女の愚かさもそのぐらいライトで、憎たらしくて、愛らしいものとして認められたいものだ。
カナみたいな女性をこの束縛から解放させるには何が必要かといえばやはり男だろう。縛りつけるも、解放するも、男。縛る方法はNoと言えばいいだけのことだが、解放する方法はYesと言えばいいわけじゃない。果たして男は女に対して何を考えているのか。男の底流にある淀みとは何なのか。女のいるところまで下がってきてむき出しにして見せてあげなければならない。そうしなければ、女を本当に縛り付けているものは何か、本当の問題とは何なのかがいつまでもわからないから。
カナは男に対して、誠実さや優しさを示してみせるわりに本音では「女」という存在を見下していることに怒っている。見下していることそれ自体にというよりも、その本音を理性で抑え込んであたかも始めから自分にそんな感情は無いかのようにしていることに、だ。だから暴力なんかで男の本能を引き出そうとしてくるのだ。もっと自分の内面に潜り込んで本当のことを教えろよ、と。
では、そんな彼女を目の前にして観客である私たちはどうするべきだろうか。カナのような女性にこれこそ“本当のこと”だと納得してもらうにはどうすればよいだろうか。そんなことを考えていたら『ニューフェミニズム・レビュー②』の富岡多恵子×水田宗子の対談を思い出した。
そのなかで富岡は「女の人の状況を書くときに男と女の共通言語をある程度意識していた」と話している。溜め込んだ感情を起爆力としたおしゃべり言葉(=女性言語)だけでは他人を巻き込めない、そのために知性や認識の言葉(=男性言語)との共通語を見つけ出そうとしていたという。私はこの話を頷きながら読んで、自分もそれを研究していく必要があると思っていた。しかしこうした作業はもう女性だけの役目ではないのかもしれない。
もし男性による男性言語と女性言語の共通語があったとしたら、それがどれだけ残酷なものだろうが、最終的には多くの女性を救うだろう。私たちは男と女について散々語り尽くしてきて、これからも語っていくに違いないが、それだけでは結末は見えている。限界を超えていくには男の力がもっと必要なのだ。
『ナミビアの砂漠』は男性たちによる男と女の新たな共通語が生まれる転期となる作品だろう。そう期待されている映画だとも思った。カナの怒りを鎮められるのも、カナを束縛から解放させられるのも、結局は男しかいないのだ。カナは男の“本当”の声を求めている。女としては悔しいが。