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掛軸 一幅目から五幅目
一幅目 直心是道場
言葉の由来は釈迦の時代、古代インドで光厳童子が、騒がしい毘耶離城下を出て修行をするのに適した閑静な場所を求めようとしているとき、釈迦の在家弟子である維摩居士と出会います。
光厳童子は「どちらへいらしていたのですか」と挨拶をすると。
維摩居士は「道場です」と答えます。
維摩居士が修行する道場となると大変素晴らしい道場のはずです。
すかさず、「その道場はどちらにあるのですか」と訪ねると。
維摩居士は「直心是道場無虚假故」と答えました。
虚仮泣きが故にまっすぐな心が道場である。
すなわち、まっすぐな心をもって修行すれば、天地いたるところが道場であり修行の場である。
いつ何時、今このときが修行の場であるという厳しい言葉であります。
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「直心是道場」
二幅目 習坎有孚維心亨
習坎は、孚あり。維れ心亨る。
習うとは、繰り返すことで、坎は土が欠けると書いて穴。穴が繰り返すという解釈です。
ですから、苦しみが苦しみを呼ぴ、繰り返すことをいう。
その苦しみをどうやって断ち切るのか。
孚とは、信じる心。
維れ心亨るとは、この苦しみを必ず断ち切る時が来ると信じること。
と言う解釈です。
今、私達の心に深く突き刺す言葉です。
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「習坎有孚維心亨」
三幅目 清寂
茶の心の全てが「和敬清寂」に込められているといわれています。 「和」とは、調和の和、互いに心を開き合わせる。
「敬」とは、尊敬の敬、互いに敬い合う。
「清」とは、心の中が清らかという意。
「寂」とは、どんなときにも動じない心。
清寂は、清らかな心はどんな時も動じない。
という解釈です。
いま、私達に必要な心です。
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「清寂」
四幅目 ○△□
丸は絶対の真理、三角は仏と一体になった姿、四角はとらわれた心を表す。
という解釈です。
丸も三角も四角も一筆の円相であります。
三角も四角も、それが真理だという事でしょう。
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「○△□」
五幅目 竹有上下節
夢窓疎石の五灯会元に
松無古今色
竹有上下節
梅自発清香
とあります。
竹有上下節
竹は上下に節があり、その間隔はバラバラであっても、上下の優劣はなく平等にある。
昨日という節目、明日という節目、
自身の節目に例える言葉かも知れません。
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「竹有上下節」