【論語】続けること、ねばりの大切さ
論語は孔子が言った言葉のみを記録してあるものなので、どんな状況で言ったのか、いつ言ったのかなどが不明なため、専門家によって様々な解釈があったり、真逆なことを言っていたりする。そこが面白いところでもある。読み手の状況に合わせて、好ましいと思う解釈を選ぶことができる。
この3つの章句は、それぞれ別の状況で言われたことなのだろうが、共通して徳を身につける姿勢について説いている。一連の流れとして読んでも興味深い。
子曰わく、吾未だ徳を好むこと、色を好むが如くする者を見ざるなり。
先師が言われた。
「私は色事を好む程、徳を好む者を見たことがない」
孔子は三大聖人に挙げられることもあり、儒教を宗教的に捉える向きもあるが、こういう章句を読むと、あくまで学問だと思わせられる。宗教だと欲をなくすことが徳だと説くだろう。徳を説くのに、色事(美人を愛すること)が比較にされていて、論語の中でも異色ではある。欲がない人が徳のある人なのではない。徳のある人になるためには、人を育ててくれる恋愛も大切なのだ。それをバランスよく行うことが大切だと言っている。こういう人間味のあるところに論語、孔子の魅力を感じる。武者小路実篤は解説(『論語私感』岩波書店)の中で、次のように書いている。「我等も人類が調和して美しく生長していけるよう、努めたく思う」
子曰わく、譬(たと)えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(いっき)を成さずして、止むは吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが譬し。一簣を覆すと雖(いえど)も、進むは吾が行くなり。
先師が言われた。
「修行というものは、、たとえば山を造るようなものだ。もう一もっこ※で完成するのに止めるのは、自分の責である。又窪地を平らかにするのに、たとえ一もっこでもあければ、それだけ自分が仕事を進めたことになる」
※もっこ 竹で編んで作った土を運ぶ道具
「夜明け前が一番暗い」「百里を行くものは九十を半ばとす」という言葉を思い出す。やり抜く力、粘り強さの大切さを書いた『GRIT』がベストセラーになるほど、最後までやり遂げると言うことは今も昔も難しいことなのだろう。論語を教えていただいている方も、あともう少しでものになるというところで止めてしまう人を多く見てきたとおっしゃっていた。
子曰わく、之に語(つ)げて惰(おこた)らざる者は、其れ回なるか。
先師が言われた。
「私が教えた言葉をおろそかにせず、実行して怠らなかったのは顔回だけかな」
顔回とは
たびたび論語に出てくる孔子最愛の弟子。孔子よりも先に亡くなり、その葬儀の際に孔子は礼から逸脱して大泣きをした。礼を重んじていた孔子だけに弟子からもその点を指摘されている。仕官もせず孔子の教えをただ実践し、貧乏なまま早世したが、顔回には及ばないと孔子にも言われるくらいの人物だった。
孔子が誰かを褒めるときは、その人を褒めると同時に他の人を励ましていることが多い。他の人も顔回を手本として励んでほしいという気持ちだろう。実生活でも、出来ていない人へ直接言うのではなくて、このような話し方をすることで自ら気づいてもらうというやり方も取れるという参考にもなる。
色々なことを途中で止めてしまって、継続力が全くないと思っていたけれど、こういう章句を読むと、心構え、気持ちの持ちようの学びになるとともに、くじけそうなときに励ましてもくれる。