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『昨日星を探した言い訳』の感想

 『昨日星を探した言い訳』を読み終えて、まず思い出したのが拝望会の場面でした。現実的に考えれば、そこには車椅子で通行する安全性などの問題や事前に参加連絡をしないという間違いがあります。それでも相手の価値観や我儘を型に当てはめて否定することや理屈ではなく感情を優先するといった理想的な美しさがありました。僕は読んでいて涙が滲みました。
 そのように読めたのはそれまでの風景描写や心理描写が丁寧であったからだと思います。具体的には、橋本先生と坂口の会話や坂口と綿貫の会話などがあるでしょう。前者に関しては、作中でも言われているように橋本先生は良い人だと僕も感じます。しかし、坂口の言い分の方が僕は理解できました。そして、坂口や綿貫、あるいは茅森のように意地を張っていたいと思いました。

 ところで、僕はこの感想を書く前に第11回山田風太郎賞の選評を読みました。そこには共感することが一つありました。それは、坂口が茅森に『イルカの唄』を教えないことに対するものです。つまり、坂口の行為が自身の前提を否定するものだったということであり、橋本先生の行為と同じものです。そのため、話の流れとしては教える方が理にかなっていて関係性としても合っていると、読者もそのように思ったのではないでしょうか。少なくとも僕はそのように思いました。
 そう考える一方で、坂口の行為をなんとなく理解していました。それは理屈で分かっていても感情的にそうできないこと、あるいは論理よりも感情を優先することだと思いました。そして、それは坂口が茅森の前ではじめて弱さを見せたところでもありました。彼女が弱さを見せたことはあっても、それまでの彼は論理的であり続け(意地を張り続け)、彼の前提を破ることはなかったように思います。物語の最後で彼と彼女がようやく今までと少し違う対等な相手になったようにも見えました。だから、『イルカの唄』をどうすべきだったか。僕にはわかりませんが、彼の行為にある程度納得できるのです。

 さて、今回の物語でも目を引く会話文や地の文が多くありました。とりわけ、中川先生に多かったと僕は思います。それを一つだけ挙げて終わりにしようと思います。

「いつだって私が望んでいるのは、たったひとつだけなんだよ。生まれだとか、目の色だとか、性別も。そういった属性じゃなくて、私の前に立ったなら、あくまで私という個人を相手に話をしろというだけなんだ」     (河野 2020:312)

 この言葉を中川先生が言うことによって、思わせることが多くあると思います。この言葉から純粋にとれる意味や、橋本先生との関係(僕の予想では中川先生が橋本先生の告白相手)、坂口と茅森あるいは綿貫と八重樫の関係など物語の節々に、そして読者に響いていると思いました。
 そのような対等な相手が今の時代では(昔からかもしれない)少ないように思います。そして、自分の信念持っている人や意地を張り続けている人も社会的なシステムや圧力、空気といったものによって減っていると思います。それでもそういう人がいたっていい星を現実にしようとする人がいること、現実に希望があることも確かなことなのかもしれません。


 

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